第1話 バッドエンドのその先へ!魂の心縁世界《エーピア》

 オレは完璧主義者だった。
 常に最善の選択を。妥協せず、ぬかりなく。失敗しないように。絶対に間違えないように。
 さて、ここに完璧﹅﹅な人生を思い描いてみよう。
 たとえば円満な家庭。仲の良い友人や、かけがえのない恋人。テストで良い点を取り、やがて良い大学に入り、良い会社に勤める。子供も生まれ、金には困らず、みんな幸せで、自分も幸せ。そうして、天命を全うし、家族に見送られて静かに魂の旅を終える――。
 ……なんて、いささか夢物語が過ぎて失笑が漏れるが、まぁそんな人生ならば、完璧と言って差し支えないだろう。
 さあ、ならばオレの人生はどうだ?
 真っ暗なリビングは生ゴミの臭気で満たされ、蠅の飛び交う耳障りな羽音が響く。山のような缶ビールの空き缶に埋もれて、バッタみたいに足を折り曲げて死んでいる父親と母親。
 そして、穏やかに目を閉じた、最愛の妹。
 オレはオレなりに、完璧に歩んできた。今振り返っても、何を誤ったのか全く見当がつかない。馬鹿げた走馬灯に、明るい思い出なんか一つもないのだから、走馬”灯”ってのもおかしな話だ。オレたちの人生はきっと、誰かの輝かしい人生の灯籠が作り出す、影の方だった。
 ああ。
 どうしてこうなったのだろう?
 オレは、今しがた妹を殺した血に濡れたナイフで、自分の首を掻き切った。オレは完璧に殺したし、完璧に自殺する。当然のようにうまくいって、頸動脈から噴水のように弾けた血が薄汚れた壁を濡らすのが、他人事のように目に映る。
 それでもやっぱり、オレはどこかで間違えたんだろうか。死の間際。考えて考えて考えて考えて、でも結論は変わらなかった。
 オレは完璧にやったはずだ。
 なら、なぜ。
 その答えも分からぬまま、そうしてオレの人生は終わる。まさに正真正銘のバッド・エンド。
 ただただ、悔しかった。
 オレも双子の妹も、まだ高校生だった。逆に言えば、高校生までは耐えた。オレたちは必死で頑張ったはずだ。なのに、この世界は、オレたち兄妹に一滴の幸福も恵んではくれなかった。
 ――そうだ。世界だ。
 世界が憎い。闇に閉ざされていく視界が怒りに点滅する。意識が途切れるまで、脳内を焼き尽くす憎悪はただひたすら、世界を、神を呪う。
 完璧な人生なんて、そんなものを高望みしたことは一度もない。オレはただ妹と共に、生きていきたかった。それだけだった、なのに。
 最後に、手を伸ばす。もう冷たくなった妹を大切に抱きしめて。

 ――ごめんな、守って、あげられなくて。

◇◆

 ――お兄ちゃん。
「うん?」
 オレは反射的に返事をした。
 その声に呼ばれた時は、そう決まっている。
 目を開けた、――というわけでもないのだが、視界が明るくなり、周りの様子が見えてくる。
 すると眼の前に、ふわふわのばかでかい犬が居た。
「うわっ!?」
「わふん?」
 思わず飛びのく。つまり……オレには飛びのくことができる、身体があり、手足があった。オレは死んだはずだが、今ここに立って、ものを考えている……。
 咄嗟にそう理解したものの、それを深く考えるヒマはなかった。
 そこにひしめく有象無象が、オレの注意をかっさらっていったからだ。
 まず目に留まったのは、やや離れたところの、――あれはどう見てもドラゴンだ。ドラゴンにしか見えない。なんだあれ? 見なかったことにする。
 すぐそばには、妖精のように美しく、色とりどりな少女たちの集団がいる。と思ったら、背中に半透明の羽が生えているんだから呆れてしまう。パーティ会場か?
「……なんだこれ」
「ふーん、見たところきみはまだ魂の旅を始めたばかりみたいだね」
「はぁ?」
 犬が、喋った。
 と思ったら、ふわふわの犬の輪郭線がぼやっと揺らいで、ぐにゃぐにゃ形を変え始める。あっけにとられて見ていると、そこにはいつの間にか、一人の青年――と言っていいだろう、背の高い、アッシュグレーの髪と目をした男が、立っていた。
「………………どういうことだ」
 絶句の後、そんな無様な問いを絞り出す。
「変だな。何も知らないの? そもそも初めてここを訪れた魂は、フィル・フィローアの元へ送られて祝福を受けることになっているはずなんだけど」
 何を言っているのかさっぱり分からない。もはや何を訊けばいいのかもわからないレベルだ。……が、オレはそこでようやくハッキリと思い出す。あの悪夢のような死に際。そうだ、オレは死んだはずだ。
 最愛の妹を、この手で殺して……。そうだ、あいつは?
「まあ、つまりはここは死後の世界のようなものだよ。……って、せっかく人が親切に説明してあげているのに、聞いてないの?」
「いや……ああ、ありがとう。でも、一緒に死んだはずのやつがいるんだよ」
「同じ世界で同じ時間に死んだのなら、まだこのあたりにいるはずだけどね」
 オレは青年(でかい犬?)へおざなりに返事をして、きょろきょろと辺りを見回す。死んだときの、学校の制服姿を探せば良いのだろうか? ちらりと確認してみると、自分も制服のシャツ姿だった。血で汚れたりはしていない。
 ――が、ちょっと待て。しかし死後の世界なんて、ずいぶん馬鹿馬鹿しい話だ。あの世ってやつか? 死後も自己の存在が続くなんて、そんなはずはない。人間の意識は生きる脳に宿るわけで、死ねば脳はすみやかに動きを止め、意識も記憶も消滅する。己の存在はそこで終わり。
 魂なんて、存在しない。だから、こんなのはなにかの間違いか、あるいは死の間際にオレが見ている夢か。
 ――いや、だとしたら、その夢にあいつがいないのは、おかしい。
 その時、この奇妙な雑踏のはるか向こうに、あの長い髪と、青いリボンの端が見えた気がした。
「――那往なゆく?」
 オレは妹の名前を呼んで、思わず駆け出した。
 謎のウサ耳集団をかき分け、自転車ほどの大きさもある蟹の脇を走り抜ける。巨大な龍。天使みたいな有翼の女。霧のようにゆらいで姿を変える者。ゴブリンの群れを押しのけて、オレは走り続けた。そんな有象無象はどうでもいい。オレにとって、大切な存在は、妹だけだ。それ以外は全部……、どうってことはない。
 そうだ、どうってことはなかった。
 こんなわけの分からない場所で、あいつは人混みに怯えるから、きっと怖がっているだろう。きっと、オレを呼んで泣いている。
 走り続けるが、その青いリボンはちらちらと見えるばかりで、一向に近づけない。
 名前を呼ぶ声も、届かない。
 オレが、妹を守ってやらないと。
 なぜかいつも、他の誰ひとりとしてオレたちを愛してはくれない、誰もオレたちの味方をしない、だから、妹のことは、オレが――。
 ……だが。
 オレは、結局、あいつを守れたか?
 真っ暗な血塗れの部屋。そこは最悪の狂気に満ちた、最悪の結末。その柔い皮膚をナイフが裂いた手応え。焼き付いた記憶がフラッシュバックした瞬間、力が抜け、やがて、オレの足が止まる。
 ……守れなかったじゃないか。
 この握りしめた拳は、どこに振り下ろせば良い。
 オレたちの世界のすべては、オレたちを見放した。暴力と、無関心と、あらゆる罵詈雑言と、徹底的な否定。世界がオレたちにくれた祝福ギフトは、悪意に満ちていた。
 逃げても逃げても。世界はオレたちを容赦なく追い詰める一方だった。
 ……オレは死んだ。オレの人生は最低最悪のバッドエンドで幕を閉じた。それで、すべては終わったはずじゃないのか。なぜ、オレはまだここにいる? なぜ。なぜ。なぜ。この先も考え続けなければならないのか。
 オレにこれ以上、どうしろというんだ。

『お兄ちゃん。この世界は正しくない。この世界はおかしい。間違ってる。歪んでいる。変だよ。狂ってる。ねえ、お兄ちゃん、それとも……狂ってるのは、変なのは、歪んでいるのは、間違っているのは、おかしいのは、正しくないのは……わたし?』

 違う。
 ――世界に決まっている。
 オレはいつも血の滲むような努力を尽くした。妹も同じだ。あるいはオレ以上に。だから、あいつを守りたかった。助けてやりたかった。幸せになってほしかった。それだけだ。
 なのに、なぜ世界は応えてくれない?
 オレたちの幸福は、最初からあの世界に存在しなかった?
 神は最初から、オレたちを見放していた?
 ――だとしたら、オレの人生に、オレの存在に、オレの意志に、何の価値があった?

 気が付くと、オレは巨大な闇の入り口に立っていた。異常に静かだった。背後から差し込む灯りが照らすのはわずかな範囲で、先は闇に消えていく。頭上も同じで、どこまでも深く、暗い。
 だがそこに広がるのが単なる闇ではないことが直感的にわかる。静謐な無限。オレの目に見えないなにかが、そこにあるのだ。
 無窮の闇の奥へ、青いリボンが消えていったような気がして、一歩、踏み出しかけた。
「こんなところで、何をしているのです?」
 その時不意に背後から、声が聞こえた。
「転生がしたいなら、きちんと手続きしていただかないと。宇宙の狭間に落っこちて永遠の虚無を漂うことになってもしりませんよ。そもそも、どうやってここにきたんです。勝手に立ち入るのは禁止ですよ」
 振り向くと、闇の中をぽっかり切り取る光の向こうに立つ人影があった。逆光でよく見えないが、子供のようだ。オレがぼんやりと立ちすくんでいると、その影はずんずん近づいてきてオレの腕をひっつかんで外へ引っ張っていった。闇が遠のいていく。
「……迷ったんだ」
「最近は変わったことばかりで困りますね」
 その空間から外へ出ると、眩しくて目がくらむ。背後で重く扉の閉まる音がした。扉を通った覚えはないのだが。振り向くと、見上げるほど巨大な両開きの扉が、二度と開きそうもなくぴっちりと閉ざされていた。
「オレの前に、もう一人誰か来なかったか?」
「いいえ。こんなところまで迷いこんだのは、これまでで貴方が初めてですよ」
 向き直すと、オレをひっぱっているのは十歳前後とおぼしき少女だった。亜麻色の髪の中から、黒曜石のような艶めく一対の巻き角が生えている。さて、本当に変わったことばかりだ。
「……なあ、ここって、本当に死後の世界ってやつなのか」
「ふむ、やはりあなたはまだ何も知らないのですね」
「そうみたいだな」
 純白のなめらかな石材でできた長い廊下が、延々と続いている。光源はどこにあるともしれず、しかし昼間のような明るさに満たされていた。ところどころに四角く切り取られた窓があり、その外に美しい庭園が広がっているが、どうも作り物じみているが、眺めていると不思議と穏やかな気分になってくる。
「やはりおかしいですね。フィローア様と連絡がとれないのも、偶然ではないのでしょうか……」
 ふと呟かれた声に、先ほども聞いた名前が混じっていた。
 いったい誰なんだ、そのフィローアとかいうのは。
「なあ、ちょっとはオレにも教えてくれないか」
「それは私の仕事ではないのですが……。まあいいでしょう」
「あと、引っ張らなくても、ちゃんとついていくよ」
「迷子になった人を信用できません」
 オレの手首をつかむ手を離さず、少女はせっせと歩いていく。もう片手には、背丈より大きな杖のようなものを持っていた。上部にジャイロスコープのような不思議な装置がついている。着ている藍色のローブといい、魔法使いみたいな雰囲気だな。
 少女の姿だが、彼女が人間の子供のような存在ではない事は直感的にわかる。オレとは存在のレベルが違うのだ。が、それでも幼い少女にしか見えない。変な感じだ。
「迷った、ってとこは信用してくれるんだな」
「……まぁ、えぇ。私にはすべてが分かりますから」
 彼女はちらりと振り向く。
「それにあなたが迷ったのだと言ったのですから。わざわざ疑ったりはしませんよ」
「そんなにお人よしでいいのか?」
「良いのです。私は全てを見通せるのですよ」
 オレの言葉を信じてくれたのは、いつでも妹だけだったことを思い出す。
 白亜の道と庭の景色は、延々と続く。時々曲がりくねり、階段を下りたり、微妙な勾配を感じる個所もある。
 やがて彼女は淡々と、話し始めた。
「ここは、魂の行き着く場所。あなたたちの文明では、あの世や天国、地獄と考えられていた場所に近いでしょうが、それとは少し違います。私たちはエーピアと呼んでいますが、あなたたちの言葉では、……心縁しんえん世界とでも呼べば分かりやすいでしょうか。ここは世界の中心coreであり、そしてedgeなのです」
「心縁、世界……魂?」
 ただ、呟くように繰り返すので精一杯だ。
 その言葉を信じるなら、やっぱりオレは死んでなお、魂としてここにいることになるのか。
「魂というものは、簡単にいうと……宇宙の中で生命によって作り出されて生まれるのです。そして生物と共に魂は成長し、宿主が息絶えると、魂も、本来はそこで消滅します。しかしそんな魂を導く方法と、この世界エーピアを生み出したのが、フィル・フィローア様です」
「神様、みたいなものか」
 慎重にそう尋ねると、しかし彼女はかぶりを振った。
「あなたたちの考える神はとても多様なものでしょうが、それとは少し違います。あの方も、宇宙の中で生まれたのです。そしてそれから、魂の支配者になった。最も、あなたの生まれたのとは別の宇宙ですが」
 別の宇宙、ということが気になるが。それはつまり、平たく言えば、元は同じ人間、みたいなことなのか。
 不思議と反発心もなく、素直に話を聞いている自分がいることに気づく。
 彼女の静かで美しい声に宿る、その超越的な響きは、水でも流れ込むかのように、オレの心にごく自然に、意味を伝える。
「フィローア様はほんとうに偉大なお方なのですよ。あの方が、つまり、あなた達の言葉で言う、輪廻転生、生まれ変わりを、科学的﹅﹅﹅に、可能にしたのです」
 しかし、流石にその言葉には耳を疑った。輪廻転生や、魂の領域が、科学?
 それが、〝科学〟なのか?
「あなたたちの言葉で言うと、ですが」
「……なるほど」
 著しく発達した科学は魔法のようなものだというが、これはそれどころの話じゃない。
 勉強は好きだったが、時間を割くことができないまま高校生のうちに死んだオレには、とてもついていけそうにないレベルの、途方もない話だ。
「じゃあこの、世界に、神はいないのか」
「――いいえ」
 気づくと、出口がそこにあった。白い壁が途切れ、ぽっかりと口をあけたそこは、橙色の光に満ちていた。まるで西日だ。
 相変わらず引っ張られて、外に出る。
 風が吹いていた。
 一目見て、心縁世界エーピアは、球体の内側の世界なのだ、とわかった。
 広々とした空間が、球状の壁に取り囲まれている。ここはその壁際で、高さとしてはちょうど真ん中あたりか。
 反対側が霞むほど広い球状空間の壁面は、ホロパネルに覆われており、そこに夕焼け空の橙色が投影されているのが分かった。遠くの方はただの自然な空のように見える。
「ちょうど、夕暮れですね」
 そんな呟きにはなんとも返しかねたので、代わりに指さして尋ねる。
「あれは何だ?」
 すぐ目の前からは細く白い石畳の道が空中へと伸び、その先は球空間の中心に浮かんでいる巨大な建造物までつながっていた。
「あそこは、エーピアにやってきた魂が最初に送られるエントランスです。大体のことはあそこで分かりますから、まずはあそこに戻ってください。ここから先は、もう大丈夫でしょう。落ちないように気を付けて下さいね。落ちると、下は――そうですね、あなたたちの言う地獄でしょうか」
「……随分広いんだな、この世界は」
 際まで行って覗き込んでみると、はるか下方には、海のように水が満ちていた。見回すと島のようなものもぽつぽつと見える。真ん中の方では中央の建造物――エントランスの下部が水面に接して、何やら港のようになっているのがうかがえる。
 そのまま視線を上げると、白亜の建造物は、橙色の光を反射して眩しくきらめいている。どこからか削り出された巨大な鉱石が浮いているようだ。それにしてもあんな遠くから、一体いつの間にこんな場所にまで来ていたのかさっぱり分からなかった。
 さらに見上げると、その上端から長い塔が、球の天井までまっすぐ伸びているのが気になる。
「あの塔は、いわゆる天国につながっている道なのです。ここからは見えませんが、下方にも同じように塔が伸びて、まあ、地獄につながっているのです。ですが、どちらもあなたのイメージとはだいぶ違っているはずですよ。それぞれ天想郷てんそうきょう獄樂郷ごくらくきょうと呼ばれる場所です。各三層ずつ、今のエーピアはこのエントランスを合わせて合計で第七層あり、天想郷の頂上にフィローア様がいらっしゃいます」
 この少女の何もかも見通す力は、本当だと感じざるを得ない。オレが疑問に思ったことを、尋ねるまでもなく彼女は答えてくれる。彼女は嘘や罪を見抜くことができ、そして決して偽りを述べたりもしない。そこには真実の誠実さがあるように思える。
 少女は、微笑んだ。オニキスのような瞳が、夕陽の橙にきらめく。
「どちらも、もとは一層でしたが。増え続けているんですよ。獄樂郷の第三層ができたのが、――大体、三千万年ほど前なので、ごく最近ですね、というのもどうやら最近は、輪廻転生というのも時代遅れになってるようでして」
 三千万年が、最近か。そこら辺はもうツッコんでもしょうがなさそうではあるが。
「輪廻転生に時代遅れもなにもないだろ……」
 ここだけはツッコませてもらおう。彼女は苦笑し、続ける。
「私にも不思議ですが、流行り廃りはあるのです。各々にとっての”異世界”への転生がとても流行った時もありましたね」
「異世界転生? いつでも人気がありそうだけどな」
 正直、オレも興味がある。まあでも、ある程度繰り返したら飽きるものだろうか。魂の感覚はまだオレにはさっぱりだ。
「最近ではこの世界に留まって過ごす者が多くなってきたのですよ。魂として成長するには、もちろん生まれ変わり、生物として生きる必要があります。ここでは、何も得ることはできません。が、それでも別にいいのでしょう。フィローア様もそれには反対していません」
 確かにここは、そんなに悪い場所ではなさそうだった。少なくとも、オレがあの宇宙のあの地球、あの国で、オレという人間として生きた世界に比べたら、ずっといいところだ。この短時間でも、そう思える。
「ここは自由です。あらゆる魂が、あらゆる夢を見て、あらゆる理想を永遠に過ごすことができる。もちろん、正真正銘の永遠の眠りにつく選択も可能です。でもその必要も、あまりないでしょう。ここでは何かを不満に思う必要はありません。ここは、魂の永遠の安寧のために作られた世界なのですから」
「自由、か……」
「ええ。あなたもここで、自由に過ごすことができます。もちろん転生もできますが」
 彼女は見通す。
 それこそ閻魔が死者の罪を裁く時に覗く、鏡のように。
 なら、全てわかっているはずだ。なのに、オレを裁いたり、咎めたりはしない。
「……オレの望みは、ここで叶うのか?」
 あえてそう尋ねてみる。
 今はまだ自分の望みが何であるのかも、よくわからないのに。
 彼女はオレの横まで歩いてくると、黄昏の輝きに目を細めながら口を開く。 
「……実は私にも、未来のことはわかりません。世界はあまりに奥深く……未来の完全なる予測というものは、この魔法のような科学をもってしても、不可能なのですよ」
 彼女は言いながら、オレの方を向くと、片手を差し出した。その手のひらをオレの方に向け、トン、と杖で地面を叩く。水面を打つように、空間がさざめいた。
「魂の意志を妨げることは、誰にも許されません。誰にもできないのです。あなたはあなたの望むように、在る﹅﹅ことができます。その意志は、神であっても、妨げることは不可能なのです」
 ――魂は、神を越える。
「それが、フィローア様の理論であり、信念なのですよ」
 その手のひらから放たれた青白い光が、オレを包み込んで、弾けた。
 澄んだ清流のごとく、頭の中に流れ込んでくる。それは、……知識だろうか。
 こうやって伝えることもできるのに、わざわざ彼女はオレと会話をしてくれたのだと分かる。
 魂の漂流地、心縁世界エーピア。
 フィル・フィローアの理論。
 それは、魂と、無限に広がる多元宇宙、――そして『神』に挑む理論だった。
「……これは本来、フィローア様が、生まれてきたすべての魂に行う祝福なのですが、今回は代わりに、私が務めさせていただきました。うまくできているといいのですが」
「ああ、大丈夫そうだ……ありがとう。すごいな。まぁ少しだけ、解った」
 当然、オレの脳で理解できる範囲なんてたかがしれている。彼女はその範囲にまでレベルを落とした知識を、オレに与えてくれたのだ。
 いや、彼女が与えてくれたのは、どうやらそれだけではない。
「良かったです。あなたはまだ、世界に生まれたばかりの魂ですね。言い遅れてしまいましたが、おめでとうございます」
「……――ありがとう」
 この世界に、生まれてきたことを、祝われたのか。それはあまりにも思いがけない言葉で、一瞬なんと返したらいいのか分からなかった。
 彼女は優しく微笑むと、続ける。
「私たちは、魂の誕生を祝福し、名を贈ります。ですがもちろん、あなた自身が決めても良いのです。最初の一生で名前を与えられた者は、その名前を名乗り続けることもよくあります。どうしますか?」
 名前か。
 オレは少し迷った。オレの名前は、要するにあの最悪な両親に名付けられたものだ。今目の前の彼女に、新しくオレの魂に名前をつけてもらえたら、どんなに良いか。と、思わなかったといえば嘘になる。
 だが……。
 それでも、オレはあいつの兄で居たかった。
「オレは……これからも前世の名前を名乗るよ。妹が……もしオレを探していたとしたら、その時は、見つけられるように」
 それを聞いて、彼女は静かに頷いた。その優しげな瞳の光が、オレの選択を肯定してくれる。
「わかりました。では、――たまき 奈來なくるさん。あなたの魂の旅路が、善きものでありますよう」
 オレはその煌めく黒い瞳を見つめた。ただ、深く感謝していた。相手に感謝を伝えたい時、言葉はあまりにも足りない事に気づく。
「ああ……ありがとう」
 オレの言葉に、彼女は頷きを返す。少し名残り惜しかったが、もう行かなければならない。
「……また、会えるか?」
「ええ、きっと」
 最後にそう交わし、オレは彼女に背を向けると、歩き出した。空中へ延びる長い道。石畳を叩く軽やかな音が心地よい。
 オレは今まで、「完璧」というものを、微妙に履き違えていたのかもしれない。
 それは今までもこれからも、完璧主義者のオレの、ただの我儘にすぎなかった。
 オレの人生の唯一にして最大の失敗は、それを理解できていなかったことだ。
 オレはオレ自身の完璧のために、妹を、たまき 那往なゆくを守り抜くべきだった。たとえそれ以外の全てを壊し、殺してでも。
 それで良かったんだ。
 なぜなら、オレたちが必死で守ろうとした全てが、最終的にオレたちを殺したのだから。
 あの人生はもう二度と、やり直せない。
 しかしオレの人生のバッドエンドには、続きがあった。今もなおオレの魂は存在を続け、ここにオレの意志がある。
 ならばその意志が続く限り。オレは完璧﹅﹅な、復讐のために、この旅路を行こう。
 それがたとえ、神や世界への反逆であり、オレのような矮小な魂には到底過ぎた望みなのだとしても。
 未来がどうなるか、それは誰にも予測できない。
 だから何事も、やってみる価値があるのだ。
 ――それが自分の意志であるならば。
 オレは視界の先の、純白の建造物を、そして、その上にはるか高く伸びていく、塔を見上げる。
 さて。
 これから、どれだけの永い時間がかかるだろうか。
 それこそ、何万年、何千万年? 想像もつかず、苦笑する。まぁ、そんな先のことを考えても仕方がない。
 まずは、天想郷の最上層にいる、フィル・フィローアに会いに行きたい。
 この魂のユートピアの創造主であり、魂を支配するという『科学者』に。
 オレは世界についてもっと知りたかった。あるいは神について。オレが復讐すべき存在は、いったい何なのか。それは世界なのか、神なのか。
 まだオレには、何も分からない。
『あのお方ならきっと、”神”について、何か知っています』
 ……そっとそう教えてくれた、あの小さな門番の名前を、尋ねそびれたことを思いだす。
 振り返ってみると、そこにはなにもなかった。歩いてきたはずの道は空中で途切れ、誰もいない。オレンジから群青に色を変えつつある、壁面のパネルが向こうに見えているだけだ。
 ――オレはもう、那往に二度と会えないのではないか。
 なぜかふと頭をよぎったそんな予感は、さて次の瞬間、耳に届いた悲鳴のような叫び声によって、かき消されることになる。
「わ、わ、わ、うわわわわわわ~~~~! ちょっとそこの人~~~~~!!」
「……え?」
 突然、その声が、上から﹅﹅﹅降って来た、と思ったのもつかの間。
「助けてぇ――――っ!!」
 その落下してきた声の主は、虚空からオレに手を伸ばしてくる。その一瞬、――オレは、身を乗り出して咄嗟にその手を掴んでしまった。
 が。
 もちろん、そんな勢いをオレが受け止められるはずもなく。
「うわわぁあぁああ〜〜っ! ごめんなさーい!!!」
「はは……こちらこそ……」
 もう笑うしかない。
 その少女の落下エネルギーは当然オレを巻き込んで、オレたちは一緒になって空中を猛スピードで落ちていく。
 おいおい。今さっき、最上層を目指そうって決めたところなのに。
 というか、この下は地獄的な所なんじゃなかったのかよ。
 キラキラと虚構の夕陽を反射する水面が、みるみる近づいてくる。
 名残惜しく身体を翻し、天井へ延びる塔を見上げるも、なすすべなく遠のいていく……。

 そういうわけで。

 オレ……環奈來の人生は完璧も程遠く、救いようもないバッドエンドに終わった。――はずだった。
 しかし、オレの『存在』はそこで終わらない。この魂は奇妙な世界に運ばれて、まだ、ここにいて。
 そして今、地獄の底に向かって垂直落下の真っ最中である。
 一体全体。
 ……どうしてこうなるんだ?


『Ex:完璧主義者のリベンジ・ロード』
第1話「バッドエンドのその先へ!魂の心縁世界《エーピア》」 了

2023/11/11〚最後に残すものをゆっくり作れば良い〛

かんぺきなものを、作らなきゃいけないような気がしてた。

いや違う……かんぺきなものを、作りたかった。だって、僕のすきなものはどれもかんぺきで、すばらしいものだったから。歩き出す時、それはいつも憧れではないでしょうか。なにかを、憧れずに目指すということができるだろうか?

『憧』という字が好きだなぁ。童の心。子ども心。憧れ。幼さと、おとなになった今、それはノスタルジー。

まぁぼくは今も子どもですけれどね。大人のなりそこないだから。

いつまでも積み木で遊んでいたいよ。飽きないから。

で、話を戻すと、かんぺきなものをつくりたいけど、そんなの無理だよってこと。

だからわたしは生きてる間、できるだけのことをして、できるだけ、できるだけのことをする。

それが最終的にはできそこないでも、何の価値もなくても、わたしには関係ない。私はいつか死ぬんだから。死んだ後、残してったものがどんな恥でも、わたしには関係ないもんね!

だから、わたしはゆっくり、最後に残すものをつくっていけばいいや。かんぺきじゃなくてもいいや。ただ、めざすだけ。一番星の輝きに、憧れて歩いていくだけなんだ。

短歌集01

半熟の黄身が滴るテーブルに 君がいなくてくずれてる朝

あの窓を割ったのだって君のため全部壊すよだから笑って

隕石のように降るからクレーター 君の形にへこんでく僕

ねぇ呼んで 僕のことなど忘れてもいいけどだけど忘れられない

もう君に届かないとは知ってても瓶に詰めては波に託した

流星雨

流星雨 とおい昔の後悔が穿って生んだみずうみの青

これだけの傷を背中にどうやって前に進めばいいのだろうか

誰だって死にたくないから死にたいと口にしていたはずの地獄だ

なにもかも投げ捨てて青 ひまわりの浮かぶ電子の海で会いたい

毎日はひとつひとつの生きもので眠りにつけば死んでいく今日

アライグマ

ラーメンに入れる「かやく」の由来とか何度聞いても覚えられない

熱々のスープを混ぜたスプーンをただ舌に載せ味わう温度

しあわせはわたしのものじゃないからと諦めて飲む珈琲の味

淡々と飢えていくのがいやだから深夜零時に食パンを焼く

ぐちゃぐちゃのショートケーキをすくいとる川面に映る泣いているぼく

つないで

夢見てた藍色の雲 雷光がぼくらを照らし貫く夜を

また次に会えるか分からないからさ 愛してるって言っときたくて

きみのこと知らないでいた三月はつめたいつめたい季節だったよ

邪魔してよ普通に歩ける道なんか君といたってつまらないから

呼ぶ声も届かないほど深くまで沈まぬように繋いでいてね

林檎

未来とかきみに貰ったはずのものぼくひとりでは抱えきれずに

眠れないままに巡った針が刺す瞼の裏に明けの明星

過ぎ去れば忘れられると思ってたぼくの頭は意地悪なんだ

ひややかにアルミニウムが反射する林檎の重さ包み込む白

世界とか連なる山とか海とかを全部壊してしまいたかった

きみはユーレイ

 

 ぼくは死んだら、消えてなくなると思ってた。
 だからきみに出会ったとき、本当にびっくりした。きみは、ふわふわ空に浮いてて、しかも半透明で、さわろうとするとすり抜けた。
 きみはユーレイなの? って聞いたら、きみは首を傾げて、両手を胸の前にぶら下げて、ひゅ〜どろろ、って言って笑った。

 *

 はじめてきみを見つけた時、青いセーラー服のきみは線路の真ん中に立ってた。立ってたというより浮いてた。踏切がカンカン鳴ってて、バーが下りていて、電車が向かってきてた。
 ぼくは最初、ただそこに人が立っているんだとばかり思っていたから、何にも考えず踏切の中に飛び込んで、きみをひっぱろうとした。そしたら手がすりぬけた。踏切の中でぼくはぼんやりきみを見つめた。見上げた半透明の顔に空の青色が透けている。時が止まる。けたたましい音が鳴り響いている。そう、時は止まってない。
 ぼくは途方にくれた。
「どうして、泣いてるの?」
 きみは優しい大人びた声で、ぼくに聞いた。ぼく? ぼくのことはどうでもよくて。
「大丈夫、見てて」
 電車は迫っていた。さわれないきみを引っ張っていくこともできないぼくは、ひとりで線路の反対側に歩いていった。バーをくぐって、そして振り向くとちょうど、巨大な鉄の塊が轟音を連れて走り抜ける。ぼくはギュッと目を閉じて身体をすくませた。
 やがて電車の音が遠くへ去っていく。ぼくは恐る恐る目を開ける。
 きみは変わらずそこに立ってた。というか浮いてた。
 ちょっといたずらっぽく笑うきみには足はなくて、まるで、昔おかあさんに読んでもらった絵本に出てきたおばけみたいだって気づく。
「きみはユーレイなの?」
 それが、ぼくが始めてきみに訊いたこと。
 良く晴れた春のある日で、風が強くて散った桜の花吹雪が、きみをすり抜けていった。

 *

「なんでユーレイには足がないの?」
「きみはどこからきたの?」
「何で透けてるの?」
 ぼくはきみに色々訊いたけど、きみはあんまりほんとうのことを教えてくれなかったように思う。というのも、多分きみだってほんとうのことなんか知らなかったんだ。だからきみは、いつもふざけてぼくにデタラメをいった。
「足があると、猫が寄ってくるから」
「地獄から来たんだよ」
「映画館で、後ろの人を邪魔しなくて良いように」
 きみはねこが嫌いで、天国が嫌いで、映画館が嫌いだった。きみはぼくの知らないことをたくさん知っていて、ぼくが考えたこともないようなことをたくさん話してくれた。教えてくれたこともある。たとえば、
 雨の日に家に入る前、傘の雫はしっかり落とすこと。卵焼きにはマヨネーズを入れたらおいしいこと。リコーダーは家では吹いてはいけないこと。
「ランドセルの中に、ねこは隠しちゃ駄目だよ」
 ある日きみは、そんなことも教えてくれた。
「どうして?」
「ねこは鳴くから」 
「ねこが鳴いたらだめなの?」
 きみはねこが嫌いだった。ぼくはねこが大好きだったから、ねこが嫌いな人もいるんだなあとちょっとおどろいていた。
「リコーダーを吹いたら、ねこが鳴いてもわからないよ」
 ぼくはきみのためにリコーダーを吹いてあげた。だけど、きっときみはぼくのために、ぼくのリコーダーをきいてくれていたんだ。だってぼくには、他にだれもリコーダーを吹いてあげられる人がいなかったから。きみはぼくの下手なリコーダーを笑わないで聞いてくれる、たった一人のひとだったから。

 *

 きみはいつもその踏切に浮かんでいたから、ぼくは毎日、そこできみと話をした。きみがいるのは、学校からの帰り道だけ。それと、雨の日以外。
 ふしぎなことに、きみが見えるのはぼくだけみたいだった。たまに踏切を通る人がきみの身体を通り抜けていくとき、ぼくたちは顔を見合わせてクスクス笑った。
「きみはそこから動けないの?」
 ジバクレイ、というのを聞いたことがあった。
「足がないからね」
 きみはそんなふうに言っていたけど、足の問題なら立っていることもできないのではないかとぼくはひそかに思っていた。きみは多分、ジバクレイというやつで、だとしたらきみはここの踏切で死んでしまったのかもしれない。
 でも、そこで事故があった話を聞いたことはなかったし、近くに花束が置かれていることもない。そこは人が死ぬような場所でも、人が死んだ場所でもなさそうに見えた。ただ、電車の道と人の道が交差する場所。道と道の重なるところ。
 だけどはじめてきみに会った時、ぼくはよく分かった。その中に立っていたら、人は死んでしまうのだということ。あと、ユーレイはもう死んでるから、大丈夫だってことも。
 そうやってきみと話していると夕暮れがやってきて、辺りは薄暗くなっていく。線路の脇の街灯にあかりが灯ると、きみの身体は透けて、光る。
「遅くなる前に、帰らないといけないよ」
 きみがそう言うと、ぼくはすこしかなしい気持ちになる。それが、お別れの合図だから。
「……どうして?」
「化け物に襲われてしまうから」
 ユーレイのきみがそう言うなら、化け物だって本当にいるのかも知れないと思ったけど、ぼくは家に帰りたくなかった。
「また明日」
 でもきみがそう言ってくれると、明日という、未来の扉がひらくような感じがした。真っ暗な未来の、ほんの少し先に光が伸びて。また明日。
「うん、また明日ね」
 ぼくは家に帰る。きみと、明日のことを考える。ユーレイ。死んだら消えると思ってた。死んだら全部なくなるって。だからこの痛いのも、怖いのもなくなるって。ぼくはユーレイになりたくなかった。でも、ユーレイになれば、誰にもさわる事はできない。だから殴られたり、叩いたりもされない。そしてユーレイになれば、きみにさわることができるのかな? 手をひっぱって、踏切の中から助けてあげることができるのかな? ああでも、ユーレイなんだから、踏切の中から助けてあげる必要ないんだっけ。そんなことを考える。一日が終わる。
 朝がくる。明日がくる。また、きみと話す。お別れをする。また明日、約束をする。ぼくは背が伸びていく。
「きみは、背は伸びないの?」
 踏切の脇に捨てられた空き缶を眺める。
「成長するのは、生きてる時だけなんだよ」
 きみは髪も伸びないし、きっと爪も伸びない。成長。ぼくはたくさんの言葉を覚え、少しずつ難しい計算もできるようになる。歯が生え変わる。成長。
「じゃあいつか、ぼくはきみの背を追い抜いちゃうのかな」
 きみは、どうかな、と笑った。

 *

 ある雨の降っていた日、ぼくは捨てねこを見つけた。
 ミャアミャア鳴いていて、雨で濡れた体が震えていて、ぼくは放っておけなくてそのねこを抱きかかえた。帰り道の踏切に、きみはいなかった。雨の日には、なぜかいつもきみはいない。でも、きみはねこがきらいだから、それで良かったのかもしれない。
 ぼくは家にその子を連れて帰った。おかあさんは、捨ててきなさいとすごく怒って、ぼくとねこは追い出されてしまった。傘もなく、ぼくは来た道を辿った。もとのダンボール箱の場所まで来ると、軒下に吹き込む雨がその箱をぐっしょり濡らしていた。
 ミャア、ねこはぼくを見上げてか細くないた。ぼくはきみに教えてもらったことを忘れていたわけじゃない。でも、この小さくて濡れて震えているちいさなこねこを、どうやって捨てたらいいのか、他にどうしたら良いのか、わからなかったんだ。
 だからぼくは、ねこをランドセルに隠して家に帰った。すててきたよ。と嘘を吐いて。
 雨の音と匂いが、隠してくれると信じた。リコーダーは家の中では、吹けないから。ぼくは廊下の隅にランドセルをそっと置く。それから、台所で作る夕飯を、少し取り分けておく。ねこになにをあげたらいいのか分からないから、明日図書館で調べようと思っていた。
 そのとき、のどが潰れたような動物の悲鳴が聞こえてきた。ぼくはハッとして庭に向かう。後ろで置きそこねた包丁が床に落ちる音が鳴る。
 はげしい雨が降っていた。
 お母さんが、ぼくの逆さまのランドセルを手に庭に立っていた。教科書と鉛筆が、散らばって雨に濡れていた。そのなかに、ちいさなぼろ布みたいに落ちている、
 ねこ。
 潰れたねこ。
 尻尾も、耳の先も動かない。もう鳴かない。
 おかあさんがゆっくり、ぼくに振り向いた。
 どうして嘘をついたの。
 ぼくは、ごめんなさい、と謝った。
 どうして謝るの。
 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
 泣きながら謝った。泥のなかに頭を突っ込んで謝った。背中が蹴られて、泥の味。
 家に引きずり込まれて、扉が閉まると、雨音が遠くくぐもった。
 ごめんなさい。ごめんなさい。
 ぼくのせいだ。
 ぼくが、きみの教えてくれたことを守らなかったからだ。
 ごめんなさい。
 ぼくのせいで死んでしまったねこ。ぼくが殺してしまったねこ。
 どれだけ殴られることも、蹴られることも、それは罰だ、と思った。

  *

「きみのせいじゃないんだよ」
 次の日、雨は止んでいた。ぼくは、踏切の近くに連れてきたねこを埋めた。それから毎日、お花を供えるのが、日課になった。
「……ちがうよ、ぼくのせいだよ」
 お花は、電車がやってくると、風に舞い上がって飛んでいく。
「……ねえ、ねこもユーレイになるのかな?」
 ぼくは聞くと、きみは首を傾げた。
「ねこは天国に行くよ」
「……天国」
 きみは、地獄から来たなんて言ってたこともあった。けど、ユーレイは未練があってこの世にとどまっているだけで、天国や地獄には、これから行くんじゃないのだろうか。ぼくはちょっとは大きくなって、そんなことを思うようになっていた。
「じゃあ、いつかきみが見つけて、ぼくの代わりに謝ってくれる?」 
 ぼくがそんなふうに言うと、きみはちょっとびっくりしたような顔をする。
「きみはきっといつか、天国に行くでしょ?」
「……天国には、行けないよ」
「……どうして?」
「天国は好きじゃない」
 そっか、きみは天国が嫌いなんだった。でも、なんでだろう。今度はそれを訊いてみると、きみはこう答えた。
「天国はね、優しくて良いことをした人が行く場所なんだよ」
 それなら、きみは天国に行けるはずだとぼくは思った。きみはぼくにも優しくしてくれる。とっても良い人だから。
 でも、きみは天国が好きじゃない。ぼくはなんと言ったらいいかわからなくなって、結局こう訊いた。
「……きみは、どうしてユーレイなの?」
 きみが最後まで答えてくれなかったいくつかの質問のうちの、ひとつがこれだった。

  *

 ぼくは小学校六年生になった。ランドセルはもうボロボロで、右の肩のところが千切れそうになっていた。
 きみと毎日話す。また明日。また明日。それを繋いでいく。
 そんなある日ぼくは、町中できみにそっくりの人を見つけた。
 凄くびっくりして、ぼくは立ち止まってしまった。きみが線路の外に出て歩き回っているのかと思った。でも違った。その人には足があって、半透明でもなかった。良く見たら顔も、髪の長さも全然違った。同じだったのは着ていた服だった。それは制服だった。青いセーラー服。
「きみの服、あの川の向こうの中学校のと同じなんだね」
 ぼくがそう言うと、きみはちょっと面白そうな顔をした。
「探偵みたいだね」
「ぼく、やっぱり気になるんだよ」
 踏切のそばに、コスモスを供える。飛んでいかないようにぼくは石を置く。
「きみがだれなのか、とか。いつ死んじゃったのか、とか」
 きみはなんだか楽しそうに聞いていた。ぼくとしては、探偵ごっこのつもりではなくて、ほんとうに気になるのだけれど。
「でもきみは教えてくれない」
 ぼくは少しずつ背が伸びていた。きみと目線の高さが近づいていく。
「べつに、どうでもいいことじゃないかな」
「まぁ、そうかもしれないけど……」
 きみのその制服。その中学校に行けば、何かわかるだろうか。その学校に死んだ生徒がいるか、調べてみたけれど新聞やテレビの報道は見つからなかったのだ。
 ぼくは、知りたかった。
 例えば、ユーレイが天国にいける方法とか。
 死んだら消えてなくなると思ってた。でもそうじゃないらしい。だとすれば、死後の世界、天国みたいなところも、あるんじゃないか。きみはそこへ行けず、何か未練があって、こんな場所に縛られているのではないか。ぼくはだんだんそう思うようになっていった。
 でもぼくがどれだけの質問をしても、注意深く話を聞いても、ぼくには何もわからなかった。例えばきみの未練とか、そういうもの。
 ただわかるのは、きみはぼくにとても優しい言葉をくれる、唯一の人だということだけだった。
 そうして、ぼくは中学生になった。
 桜の季節、新しい制服に身を包むぼくに、きみだけがおめでとうと言ってくれた。

  *

 また明日。
 だけど雨の日には、「また明日」は途切れる。ある日、いつものようにきみと話していたら、途中で雨が降り出した。するときみは瞬きのうちに消えてしまう。それはもしかしたらヒントかもしれないと思った。ぼくは、その日、踏切の周りを念入りに調べてみた。
 でも、手がかりのようなものは何もない。そのうちぼくは踏切の中心に立って、鉛色の雨空を見上げていた。
 カンカン、と踏切の警音が鳴り響く。ぼくはなぜかそこに立ち尽くしたまま、ぼんやりとその音が脳内に反響するのを聞いていた。
 きみがいない。すべてが、半透明の幻のような気がしてくる。
 ぼくはずっと独りで、ここに立っている。
 ここに、ずっと。
 思考を引き裂く汽笛の音が、ぼくを連れ戻す。ぼくは我に返ると踏切から外へ駆け出した。
 背後から轟音が襲う。
 振り向くと、薄暗い空の下、煌々と輝く電車が走り抜ける。
 きみのいないこの場所は、とても恐ろしいところのような気がして、ぼくは弾かれたように踵を返して走った。でも帰るところもなくて、あてもなく、疲れるとゆっくり歩いた。
 家には帰れない。そこにぼくの居場所はない。
 その頃、おかあさんはぼくの知らない人と急に再婚した。そのひととはあまり話したこともないけれどなぜかその目つきがとても怖かった。ぼくはおかあさんにますます嫌われていく。ぼくはいつも邪魔者だった。
 やがてたどり着いた公園で、キィキィ、古びたブランコを漕ぐ。雨が降っている。

  *

 晴れの日には、またきみに会える。
「その怪我、どうしたの」
 きみは少し悲しそうな顔でぼくに訊いた。
「あぁ、これ学校で、やられたの」
 いつの間にか、家だけじゃなくて学校も、ぼくの戦場になっていた。
「いつも奇跡みたいにハズレくじを引いてるね」
「昔っからそう。きみは運が良いほう?」
 と聞くと、きみは吹き出した。
「運がよかったら多分、こんなことにならないよ」
 半透明な両手を広げるきみも、なんとなくぼくに似てるような気がして、ちょっと笑った。ほっぺの痣が痛い。
 ぼくはその頃、きみとよく映画の話をした。きみは映画にとても詳しくて、ぼくがテレビなんかで見た映画の話をすると、きみはどれも見たことがあると言う。きみはこの世のすべての映画を見たことがあるんじゃないかと思ってしまうくらいだった。お小遣いなんて貰えないけど、食費は貰っていたから、少しずつ貯めて、ぼくはたまに映画館に行くようになった。
 ある日、その帰りに、後ろから突然だれかに蹴飛ばされた。ほぼ満席の映画館で、ぼくの後ろに座っていた、クラスメイトだった。ぼくが邪魔だったって。
 きみみたいに透けてるユーレイなら邪魔にならなかったかも。なんてその時考えて、きみが昔言ってた冗談を思い出して少し愉快な気持ちになった。
 ぼくは虐められるようになった。
 小学生の頃も、汚いとか、喋り方が変とか、からかわれることはあったけど、その比じゃなかった。ただそこにいるだけで、蹴られる。暴言を吐かれる。なぜなら、王様がそう決めたから。王様の言うことは絶対なんだ。ぼくがなにか言うとみんな馬鹿にして笑う。それから死ねと言われる。開け放した窓を指さしてわらっている。
 みんな、ぼくに死んでほしいみたいだ。おかあさんも、たまにぼくに死ねと言う。ぼくは生きていてはいけないのかもしれない。
「死ねって、どういう意味なのかなぁ」
 ぼくはきみにそう尋ねた。自殺しろという意味なのか。それとも、ぼくがここにいることを責めているのか。ただ傷つけるだけの意味しかもたないのか。
 きみは咳ばらいをして、どこかのエライ先生みたいな口調で言う。
「死ねっていうのはだね、そんな事を言ってくる人間は地獄に落ちるということを意味するのだよ」
 ぼくはちょっと笑えた。そうかもしれない。
「……でも、人にそんなことを言わせた方も、いけないのかな」
「そんなわけないでしょ」
 きみは急に真剣に言った。
「きみがなにかしてもしてなくても、そんな事を言っていい理由にはならない」
 いつもきみは、ぼくの代わりに怒ってくれる。ぼくのせいじゃないと言ってくれる。やっぱりほんとは、ぼくのせいなんだと思うけど。だから、きみは優しい。
「そうかな……」
 でもだからといって、毎日は変わらない。また明日。戦場と戦場を行き来する毎日。そのあいだ、ひと時の優しい時間。
 ぼくはだんだん、思うようになる。さわれないきみと融けあって、この踏切に立って。
 死ね。
 きみをすり抜け、ぼくをグチャグチャにする電車は、どこか幸せなところにぼくを連れて行ってくれるのではないかと。

  *

 なんで人は、こんなに残酷になれるんだろう。
 放課後の教室、ぼくはいない。ぼくは遠くの踏切のことを考える。ふわふわ飛んでいく。するときみがいる。
「映画にはよく、悪役が出てくるよね、でも現実の悪者はそれよりもっと酷いことをする。なのに役じゃない」
 きみはそんな事を言う。
「みんながきみみたいなユーレイなら良いのに」
「幽霊なんかいないけどね」
 きみのそんな冗談がおかしくて、ぼくの頬がゆるむ。
「きみが天国にいけないなら、この世界はおかしいよ」
 教室に斜めに差す光が眩しい。床は冷たいが手をすべらせると、その陽だまりが暖かい。
「大丈夫だよ」
 きみはそんなふうに言って、ぼくを抱きしめる。電車がやってくる。きみは透明で、今はぼくも透明。音もなくやってきた電車が、ぼくらをすり抜けると、ぼくらのまわりを電車の車内が通り過ぎていく。赤い西日の差し込む車内の時間は止まっている。
 気がつくと、ぼくは教室の床や、掃除ロッカーや、トイレや、体育館の倉庫に、くしゃくしゃの紙くずみたいに捨てられている。立ち上がる。暗くなる前に、はやく帰らなきゃ。
 暗くなると、きみとはお別れ。だけど、気がつくと学校にいる間にもう日暮れになってしまう。
 きみに会えない。きみがいない。
 ぼくも、ユーレイになりたい。
 

  *

 その日、ぼくは家に帰るのがとても遅くなってしまった。ぼくの放課後はいじめられるのにいそがしい。帰るのが遅くなると夕食の準備も遅くなって、おかあさんを怒らせてしまうから、きっと怒っているんだろうなと思うと足が動かなくて、余計に遅くなった。
 でもあんまり遅すぎたせいか、おかあさんはもう眠っていた。煙草とお酒の匂いが部屋に満ちていた。
 薄暗く狭い居間に、おとうさんという人がいた。
 おとうさんという生き物のことをぼくはよく知らなかった。そのあたらしいおとうさんとはあんまり話さないように避けていた。でもその日、おかあさんはすっかり眠っている。その人と目が合ってしまう。
 なぜか優しそうに笑うのが、怖いと思った。
 虐められてんのか。と煙草の火を消しながら言う。
 ぼくがなにも言わずにいると、今度は来い、と言った。
 戸惑いながらぼくは、一歩近づいた。二歩近づく。机の上にはビールの空き缶が何本も転がっている。
 その人は急にぼくを引っ張る。
 酒と煙草の混ざる腐ったような息の匂いが鼻をつく。
 あれ、どうしてだろう。
 なんで?
 なんで、ぼくはきみにふれられないのに。きみはぼくにさわれないのに。こんな汚い手がぼくにふれるんだろう?
 なんでだろう?
 なんで人は、こんなに残酷になれて、なんでこんなに狂ってしまえるのだろう?
 それとも、全部ぼくが悪いのだろうか。それなら、全部が納得できた。
「やめて、ください……」
 つぶやく口が塞がれる。直ぐ側におかあさんがいる。襖の開け放された隣の寝室。ぼくは、自分にもどこにそんな力があるのか不思議なほどのちからを出してその手を逃れて、叫んだ。
「た、助けて、――おかあさん、助けて‼」
 ぼくは、叫んでしまった。舌打ちと同時にぼくは殴られる。
 お母さんは、うるさい! と呻いてから、ぼくたちの方を見る。
 その一瞬の静けさに、ぼくはもうなにもできない、祈って、縋ることしか、手を伸ばすことしかできない。
 ぼくはそれまで、心のどこかに、淡い期待があったんだ。ぼくは、忘れられなかった。ずっと昔、ぼくを抱きかかえて、桜の花みたいにぼくに笑いかけて、絵本を読んでくれたおかあさんのことを。このひとは、あのひとだということを、どうしても信じたかったんだ。
 だけどおかあさんはものすごい勢いでぼくにあらゆるものを投げつけ、あらゆることばで罵倒した。ぼくを﹅﹅﹅。ぼくはおかあさんから何もかもを奪うって。
 お前は悪魔だ。死ね、地獄に落ちろ、お前みたいなバカ娘、産まなければよかった!
 その時、涙がこぼれ落ちた。
 おかあさんに言われた言葉が悲しくて、泣いたのは、それが二度目だった。一度目は、もっと前、そう、きみを初めて見た時。その日は、ぼくが怒らせてしまったおかあさんが、最初にぼくに死ねって言った日だった。
 ぼくは弾かれたように家を飛び出した。涙があとからあとからこぼれて、ぼくは、声をあげて泣きながら走った。痛いほどの雨が降っている。
 ここは、地獄だ。
 裸足の足の裏が石を踏む。

 きみとおんなじ、ぼくの青いセーラー服は、雨と誰かの狂気で、汚れて、擦り切れている。
 きみが待ってる。
 
 そうだよ。死んだら全部消える。
 全ては生きている間にしか存在しないの。
 だから大丈夫だよ。

 きみが呼んでる。

 雨の吹きつける踏切のランプが赤く点滅し、雨粒がそれを乱反射させる。けたたましく、警音が歪んで聞こえる。
 そこに、きみが立っていた。
 そこはいつも、ぼくに尋ねる場所だった。
 歩き続けるか、立ち止まるか。
 ふたつの道が重なりあう。生と死が、交差する場所。
「そっか、きみは……」
 青いセーラー服。
 まるで鏡合わせの、ぼくときみ。
 目線の高さはいつの間にか揃っていた。ぼくはバーを潜り抜けて、踏切の中に入る。半透明なきみと向き合って、立ち止まる。
 中学校に入って、少し調べればすぐ分かった。あの学校に、これまで、電車の事故で死んだ生徒は居ない。
 なぜなら。きみは。
「……ユーレイじゃなかったんだ」
「ずいぶん、遅かったね」
 きみはまた、ちょっと悪戯っぽく笑った。
 ぼくはさいしょから、勘違いしていた。きみはぼくに、一度も嘘をついていなかった。ほんとうのことを、教えてはくれなかっただけで。
「うん。やっと、わかったよ」
 それは今際の際に、極限に引き伸ばされる、半透明の幻。ゼロへ、漸近していく無限の時間。
「……ぼくはね、きみに天国に行ってほしかった」
 きみは言った。
「……どうして?」
 ぼくは、天国にはいけない。ぼくはわるい子だから。地獄に堕ちるんだとおかあさんは、ぼくにいつもそう言った。きっとそのとおりだと思う。
 ぼくはいつかねこを殺したし、さいしょのおとうさんがいなくなったのもきっとおかあさんの言う通りぼくのせいだし、みんなが死ねっていうぼくは、きっと悪い人なんだ。そしてまた、ぼくのせいで、きっと壊れた。ぜんぶ、ぼくが悪くって、ぼくはここにいちゃいけないんだ。
「ぼくは、きみだから」
 でもきみはそう言った。涙がこぼれ落ちるのを頬に感じた。そうだ。
 ぼくもきみに、天国に行ってほしいと思っていた。今も思っている。ぼくに唯一優しくしてくれた。それと同じなんだ。
 檻のように閉ざされた踏切に、警音がこだまする。ぼやけていく、ゆがんでいく視界。雨と桜の花びらが降り注いでいる。
 電車が近づく。ライトがぼくたちを明るく照らし出す。悲鳴みたいなブレーキの金切り声。
「だから、ぼくが地獄にいくよ」
 きみは、ぼくの肩を押した。
 ぼくの身体はよろめいて、線路の上から外れる。その一瞬、きみがぼくに笑いかける。最後に。
 また、いつか。
 ぼくがそうつぶやくと、きみはふっと視界を過る電車に融けて消える。
 そしてぼくの両足は、猛スピードで廻る電車の車輪に骨ごと引きちぎられた。勢いでぼくのからだは吹っ飛んで、雨のしずくが、止まる。
 極限の時間に、ぼくはきみを想い、ぼくはユーレイになる。
 ずっと独りぼっちだったぼくに、ぼくは笑いかける。誰もくれなかった言葉をかける。誰かに言ってほしかった言葉を。怒れなかったぼくの代わりに、めいっぱい怒る。その笑顔のために、口下手なりにふざけてみる。きみは悪くないよ。きみが誰にもできなかった話を聞く。また明日。だれもくれなかった約束を、きみに捧げる。
 誰も願わなかったことを、きみに。
 全ては一瞬だった。
 やっと、心からわかった。
 きみはユーレイだったんじゃない。
 きみはぼくだったんだ。

  *

 人は、死んだら消えてなくなる。全ては死ぬまでにしか起こり得ない。
 世界はぼくに降り注ぐ冷たい雨で、きみはぼくの生と死の境目にゆらめいたユーレイだった。
 きみは天国が嫌いで、ねこが嫌い。雨が嫌いで映画館が嫌いで、そしてなにより、きみは自分のことが嫌いだった。でもぼくは、そんなきみが好きだった。
 この世界に神様はいなくて、もうきみもいない。天国も地獄もない。ぼくや、他の誰かが悪いことをしても、誰も裁いてはくれないし許してもくれない。
 ぼくは今日もきみのために、透明な足で踏切を渡る。
 いつもぼくはきみに訊いてばかりだったから、もしもまた会えたら、今度はぼくがきみに教えてあげたい。
 足がなくても、ねこは寄ってくるってこと。ぼくは手を伸ばし、やわらかいねこの頭を撫でる。

なにもかもなくしたあとのほしぞらを涙が濡らす 光になりたい

 月並みにも、書くことしかできない、と思っていた。
 私にはほかに何もできなかった。人の役に立ったことがなかった。何をしても失敗で、人を傷つけ、迷惑をかけた。他人を不幸にしたことすらあった。
 書くことだけが、私のすべてだった。
 なのに、それすら。
 私は書くことしかできないのに、それすら、できない。そう思う時、それは紛れもない絶望に私を突き落とした。
 全部やめてしまえ。
 そういう時、死神がやってきて、私に囁いた。
 そうすれば楽になれる。書いても書いても、意味なんかない。優しい誰かの時間を奪うだけだ。どうあがいても、お前には生きてる意味がない。死ぬより生きるべきだと思ってはいないか? それは勘違いだ。お前はもっと昔に死ぬべきだった。そして今からでも遅くない。さあ、全部俺に任せてくれればいい――。
 死神は私に手を差し伸べ、
 私は、答える。
 ――「嫌だ」、と。

 深夜の街は冷たく、海はいつも暗闇の底から波音を響かせていた。
 ひとりで波打ち際を歩き、臆病な私は波の音が全てをかき消すそこで、ようやく話ができた。
 海は私を拒むだろうか?
 寄せては返す暗がりの白波。水平線にぼやける漁船の灯り。
 きっと拒むだろう。
 なめらかに暗い砂浜や、月もなくかがやく星空が、羨ましかった。
 光になりたいと思った。


 死神は、私に優しく笑いかけて、また影に消えていく。
 知っていた。分かっていた。彼の言うとおりだ。
 それでも、
 それでも信じたかった。
 この言葉、私の命に、少しだけの、意味、その先に少しでも、美しいものがあると。信じたかった。もう一度だけ歩き出す未来に、価値があると、そう信じたかった。
 全ては最悪だった、生まれてこなければ、それが一番良かった。それでも生まれてしまったのなら、死ぬべきだった。それでも生きてきてしまった、死にたくないと思ってしまっていた。この人生が、無駄に、ただ泣いてばかりで終わってしまうのも、夢や願いを手放して終わっていくのも、本当は嫌だった。
 この涙がせめてきらめいて、美しい言葉に変わることを、美しい物語を紡ぐことを、信じたかったんだ。
 何もできない私にとって書くことは唯一で、私のすべてだった。
 それでもなにかを、書くのはつらい。
 命を削り、身を切るような行為だ。
 そしてそれはすべて無駄に終わるかもしれない、誰にも理解されず、届かず、あるいはただ消費されて、踏みにじられて、終わるかもしれない。
 それは自傷の痛みと同じだ。
 傷痕だけが、
 大切な傷痕だけが、私の身体にただ残される。流れた血も、流した涙も、全部ただ、過去に消えるだけだとしても。
 きっと、私が残す全ては、そんな傷痕と一緒だ。
 心が砕け散って。
 血が滴り落ちて。
 息ができなくなるほど、泣いて。
 それでも綴った言葉が、傷ついた心を少しずつ癒して、私は淵から這い出て、前を向いて、また言葉を探した。
 また歩き出す一歩、崩れていく足元を踏みしめて。

 好きだった人。
 大切だった人。
 かつてはあった、帰る場所。
 書きたくて、でも書けなかった物語。
 全部なくしたあとで、それでも続いていく未来に絶望して。
 過去を振り返って、すべては哀しい思い出に変わってしまったことが苦しくて。

 それでも私はまだ考えていた。
 どうやったら、前に進めるだろう。
 大切なものを捨てずに、どうやって?

 諦められない、惨めで愚かな私だから。
 こんな私にもしも名前があるとしたら、それは、未練だ。
 
 どうしても、捨てられないから。
 光になりたい。
 例えばそんな、くだらない願いでさえも。
 

“妹”の話

 僕たちは、実際には一人ではなく、兄妹二人で生きていた。僕は本当に彼女の兄なのだろうかと疑問に思うことは今でもあるが、彼女が僕を兄さんと呼ぶのだからきっと、彼女は僕の妹で、僕は、彼女の兄なのだろう。
 妹の事は、誰よりも大切だった。
 僕が出会ってきた人の誰よりも優しく、そして繊細で臆病だ。彼女自身は、それはただすべて臆病にすぎないと思っているようだが、僕はそうではないと思う。そこには確かに優しさがある。誰よりも、優しい子だ。
 いつも他人を傷つけるくらいなら、自分を傷つけようとする子だった。
 実際、妹の身体は傷だらけだ。痛みを、少しは分け合うことはできても、傷痕までは、背負ってあげられない。人前では傷を隠したがるから、できるだけ、目立つような場所には傷をつけないよう、導いてあげることが、精一杯だった。
 兄として、僕はなにができるのだろう。
 僕を兄さんと呼んでくれる彼女に、なにがしてあげられるだろうか?

 この前――何か思考が縺れて、混乱し、泣いている妹が、手首を切りたがっていた時、僕は止めた。手首に傷をつけると、あとで困ってしまうだろうと思っていた。今以上に、着たい服も、着れなくなってしまうだろうから。だからその手をそっとつかんだ。
 その時彼女は泣きながら僕に訊いた――「なんで兄さんは、私が生きていていいと思うの?」。
 理由なんか、正直に言えばなかった。僕にとって彼女は、大切な存在だった。何があっても。兄として妹を大切に思う感情に理由なんかなかった。だから、生きてちゃいけないなんてことはない。
 でも彼女は、無条件の愛情というものを嫌っていた。そんなものは信じられない、そんなことあるわけがない。無条件に愛されることなんてありえない、と。
 僕たちには理由が必要だった。
 だいぶ前のことで、その時僕は何と答えたか、忘れてしまった。

 僕は妹の代わりに、いろいろなことをよくやっていた。主には人と話すとか、外の世界とかかわるような事だ。
 僕は妹を守ってあげたかった。どうしようもないほどに優しい彼女の臆病さは、過剰すぎて、時には人を傷つけてしまうことすらあった。そういう時に一番、彼女は傷つく。ここ数年は、もう外には出たくない、誰にも会いたくないと、閉じこもるようになってしまった。兄さんがいればいいと、言って。
 でもそれでいいのか、僕は時々わからなくなる。
 僕が彼女を、縛っているのではないか。
 閉じ込めて、蓋をして。もう傷ついてほしくない、そう思う一心で、でも、それは妹のためになるのだろうか。
 僕はもうわからない。
 でも、妹は時々、僕を呼んで泣く。僕がいなくなるのが不安だと。独りにしないでくれと。この子を置いてどこへ行ける? この子を一人置き去りにしてどこへ行けるっていうんだ。
 ずっと一緒だ。手を繋ぎ、頭を撫でてそう約束して、妹はようやく泣き止んで、安心して眠りにつく。その後で僕は暗い天井を眺め、眠れない夜を過ごす。
 僕にはもう分からない。
 ただその腕や脚の傷を撫でてやることしか、いつもできなかった。

 もしかしたらすべては、僕のせいなのかもしれないと、そう思いながら……。

【鐘の音】

また、目を閉じた。
緩やかに死にたくて。

午前二時。

眠るのが怖い。
時計塔が鐘をうつ。

時は私たちからあらゆるものを奪っていくから。
柔らかな陽だまりや、
繋いだ手の温度。
笑み。言葉。親しみ。

影は地平線の彼方へ遠く伸びていく。
黄昏。

去ってゆく電車に置き忘れてきたものを、
どうしたら取り戻せるだろう。

ごめんなさい。
貴方に貰ったものをわたし、なくしてしまいました。

涙じゃ返せないことは知っていた。
ごめんなさい。
鐘の音は闇に溶ける。
それは時のせいではない。
私のせいだ。

呼吸を、言葉を

 生きていて、不思議だと思うことがある。
 私は、絶望から筆を執ることがある。絶望について語り始め、絶望について語り続ける。それなのに、気がついたらそれはいつの間にか、希望を語る言葉になっている……。
 そう言うことはしょっちゅうあった。どんなに涙にくれる絶望の底でも、私はいつも無意識に、見苦しくも希望の星を探していた。そして自分自身の言葉に何度も救われた。例えば遺書を書くつもりが、いつの間にか再生の物語を書いていた。そういうようなことだ。

 その理由は、たぶん……私はいつも、生きたくて語っていたからなのだろう。

 死ぬために呼吸ができるだろうか? 呼吸は生きるためにする。本質的には、死ぬためであれば、呼吸を止めるしかない。それが、このゲームのルールだ。世界が決めた絶対的なルール。いつだって簡単に死ねる。息を止めればいい。それだけなのだ。

 だから生きて語る限り、それは生きるためだ。死にたいという言葉は実際、生きるためにあった。本当に人を死に至らせるのは死にたいという言葉ではない。本当に人を殺すのは、そういった言葉がすべて奪われ、語る言葉をすべて亡くした、空虚な暗闇の底だ。その場所について私たちは、主観的な言葉を遺すことはきっとできない。本当に人が死ぬことになるのは、人が呼吸を辞めてしまうのは、そういう場所だ。言葉のない場所だ。

 だから、人から言葉を奪うようなことをしてはならない。その人が語る言葉を、聞かなくてはならない。問いかければ、答えてくれるかもしれない。語り続けてくれるかもしれない。(ただ、焦らないように)

 これは重要なことだから、繰り返す。誰かに本当に生きてほしかったら、言葉を奪ってはならない。

 耳を傾け、その人が生きて、呼吸をしている事に……、もしできるなら、ありがとうと抱きしめてあげてほしい。私はいつもそういうことができない、臆病者だった。人に触れることが苦手だった。本当は手をとって、触れて、抱きしめてあげたい、一緒に泣いてあげたい、そう思うことは何度もあった、でもいつもできなかった。だから、もし、できたらで構わない。

 死にたい、生きることは苦しいことだ。そう感じている誰かに、生きてほしいと願うなら。もしもそれを強いて満足しているような心があるなら、それは暴力だという事を忘れないでほしい。生きてくれてありがとう、そう告げることは本当は残酷なことだ。それは、私のために苦しんでくれてありがとう。という意味だから。でもそれを自覚して、それでもなお、大切な誰かにそう告げた時、それは必ずしも単なる暴力にすぎないか? 私はそうではないと思う……けれどそれは、間違っているのかもしれない、そう思いたいだけかもしれない。

 ただ、誰かに生きてほしいと願われた時――愛情はいつも身勝手で、我儘なもので、でもそれが愛情なのだという事を、分かってあげてほしい。
 そういった愛情を尊いものと思うか、醜いものと思うか、それは人それぞれだ。

 例えば死にたいと人が口にするとき、人が語るとき、それは生きようと苦しんでいるということだ。息苦しさのなかで、何とか呼吸を繰り返しているのだ。その言葉を奪い取ることこそ、お前なんか息をするな――死んでしまえ――と告げる事を意味するのだ。

 人から言葉を取り上げることは、呼吸を奪うことなのだ。

 もしも貴方に、本当に大切な人がいたとして。たとえその人がこの世界で苦しんでいても、それでも一緒に生きていきたいと、そう思うひとがいるのなら。忘れないでほしい。
 その気持ちを私は、ただ醜いものだと思わない。
 とても尊いものだと思う。その気持ちがもしかしたら、人を苦しみから救いだす唯一の可能性を持ったものかもしれないと、私は少しだけ信じている。

 どうか言葉を聞いて、手をとって、抱きしめてあげてほしい。できたらで、かまわないから。

Re

 はじめまして。ここには私と貴方しかいないのですから、互いに名乗る必要はないでしょう。私は人生の裡に何度も筆を執っては投げ、執っては投げを繰り返してきました。しかし折ることはできなかったのです。例えば”折れないゴルフクラブ”があるじゃあないですか。折れない棒というのはつまり、よく曲がるのです。しなるのです。折れないゴルフクラブは実は折れるのですが、私の筆は折れませんでした。両端がくっつくぐらい曲げても折れないのですよ。非力な私ではねじ切ることもできません。どうあがいても、折ることができなかったのです。

 それで投げ捨ててきた筆をまた執る気になったのはなぜでしょうか。理由は特にないのです。私にしてみればいつも、何か書くのに理由なんかありません。でもいつも何かをやりなおすような気持で文字を書き始めます。

 今日は2023年の7月1日です。梅雨の真っ只中、昨夜の豪雨が置いていった曇天、大気は雨の匂いに濡れて重たくて、あんまり気持ちの良い日ではありません。昨夜、私は朝の五時すぎまで眠ることができませんでした。頭はぼうっとして、頭上は灰色の曇り空。一年の半分がまたも過ぎ去ったことを実感する日の夕方です。

 無為に生きることが悪いとは思えません。もしもそんなことを言ったら私は今までの人生で有為なことをなにひとつしてこなかったのですから、私の人生は最悪になってしまいます。私には生きる価値がないということになってしまいます。それは嫌だ、と自分の人生を勝手に価値づけようとする図々しさが私にはあります。嫌な人間です。

 でも別にいいじゃないかと、結局私は心のなかではそう思うことしかできないのです。意味のあることなんか成し遂げなくていい。別に実りある人生でなくていい。今日という日を、この一年の半分を無為に過ごしたって、それがなんだっていうんだろう。別にかまやしない。

 立派な人間にならねばと急き立てられる日もありました。というか現に、実際は今もそれから逃れることはできていません。そうはいっても自分の無価値さや無力さが劣等感や罪悪感となって私を苛むのです。だから夜も眠れないのです。

 いつも自分の元来の心と現実にあるべき姿の影が、私を引っ張り合ったり押しつぶしたりするのです。

 小学生か、中学生の頃、私は、自分の心というものを捨てられれば正しくなれると思っていました。自分のわがままや自分の感情を消し去ってしまえば、大人のいうことを聞いて、立派で正しくて、人のために良いことをできる人間になれると思っていたのです。自分の気持ちや我儘があっても誰かを幸せにすることはできないのだから、私の心は他人を幸せにするためには必要がないものなのだと感じていました。心というものは努力次第で消し去ることもできると、そう思っていたのです。貴方もそのようなことをもしも試みたことがあれば、きっと知っているでしょう。無理なのです。心は消し去ることができません。捨てることはできません。少なくとも自分の意志では。(しかし、誰かに壊されるということはありえるのです)少なくとも、私にはできませんでした。

 それでも、不可能だと知っていても、やっぱり私の心は邪魔でした。私に心なんていうものがあるせいで、人を傷つけたり、人の不幸を見て見ぬふりしてしまうのです。

 今でも変わることを、願っている自分がいます。

 正直なところ私は、人類をあまり愛してはいません。人類をもっと愛せていたら、人々のために何か意味のあることをしたいと張り切ることができたのでしょう。でも私は、あまりそういう気分になれませんでした。ずっとそうです。

 でもこんなところで貴方と出会うことのできる世界を、そしてこんな私の言葉をここまで聞いてくれた貴方の存在を、全く愛していないかといえばそれはきっとうそになります。

 この世界は一体あと何年続くでしょうか。水や生命はいつまで巡るのでしょうか。10年、20年? 100年? あるいは5000年?

 生まれてきたことをあまりよかったとは思えていません。毎晩毎晩、生まれてこなければよかったなと思います。”ここ”に”誰か”が必要だったのなら、それは私でなければよかったと。私には本当に、なんにもできないのです。でもこんな言葉だけは世界に残していくことができる。それが無為に消え去るだけでも別に構いません。そんなことは今に始まったことではないからです。

 誰かのために書くのではありません。でも、私と貴方のために書きたいと思っています。

 生きている限り、傷は癒えるのです。それこそが生きることの苦しみです。だからまた傷つくのです。死ぬまで。それを繰り返すのです。

 はじめましての挨拶としては少しばかし長くなってしまいました。今回はこのくらいで終わりにしておこうと思います。
 もし縁があれば、またここでお会いしましょう。

 さようなら。お元気で。