2023/11/21〚勉強と現実〛

 憂鬱だ。

 私は一体、何年も前の事にいつまでとらわれるのだろう。でもそれを手放したらもう私は私ではない。それぐらい私は今目の前のことから隔てられた場所にいる。

 目の前のこと。

 最近、哲学の勉強に嵌った。

 本当はゼミの発表の準備とか、しないといけないから、私がするべきは文学研究の論文を読んだり、作品を読んだりすることのはずなのに、私はいつもなにかの現実逃避としてしか何かにのめり込めないようだ。

 大学の勉強が、三年生の半ばになって楽しいと感じるようになった。二年生の頃は本当に辞めたくて辛かった。勉強も楽しめなかった。でも今になって。

 もっと最初から楽しめていれば、あの苦痛な時間もなかったし、今ももっと進めていたのだろうと思うと、惜しいが、こればっかりは仕方ない。

 考えることも好きだし、研究も面白いと思う。でも私は、これ以上、学問の世界には入っていけないのだろう。私は結局、私の世界にしかいられない。いつも思索には自分の勝手な想像や決めつけが混じる。いつも自分の視点から離れられず、偏った見方をするし、知識もない。何より興味の移り変わりが激しい。

 これから私はどうすればいいのか分からない。

 勉強は続けたい。研究というか、自分なりに考えることもこの先も続けたい。

 然し私の人生には、現実が欠如している。

 現実……とはいえ現実は一体……どこにあるのだろう。

 いつも愚かな自分に嫌悪が湧く。その愚かさを忘れてばかりいる自分に。

相談室にて③〈自分の人生って何なんだ〉

 カウンセラーの先生曰く、自分の人生を生きなよ、ということになるらしい。

 うん。でも自分の人生というのは、一体なんだろう。自分の人生は、結局、自分だけのものではない。切り離せない過去、数多のしがらみ、多くは「関係」によるものだとおもわれるが。

 誰とも、世界とも無関係でいられれば、たしかに自分の人生を生きられるだろう。でもそんなことはあり得ない。人と、世界と関わりながら、自分の人生を生きるということは、ムズカシすぎやしないか。だって、私は他人のことも、世界の事もあんまり好きじゃないもん。

 でも、きっと私自身が私の話を聞いても、同じように「自分の人生を生きなよ」と言うことになるだろう。人間は生まれながらにして云々カンヌン、というか、誰かが誰かの人生を決めるなどということが、絶対的であるはずはないからだ。

 だけど実際。

 自分が生きたいようには生きられないし、自分が生きたいように生きたぶんだけ、他の誰かは苦しむことになる。そして自分が生きたいように生きたぶんだけ、責める人がいる。責める自分がいる。そこには思う描くような幸福がなさそうだということは目に見えている。

 人間はうまれながらにして平等ではない。あらゆる点において不平等だ。人生の最初から最後まで、他者と他者は互いに不平等である。そう言わざるを得ない。だけどそもそも、平等であるかどうか、は問題なのだろうか。平等はただの理想で、現実は、どこまでも現実だ。

 不平等であることはそもそも世界の前提であり、問題としたり、それは違うなどといってみたりしても仕方ないのではなかろうか、しかしそれを多少ごまかそうとする試みも、全く無意味というわけではなさそうだ。

 しかし、現実として社会という場所はきわめて嫌なところだ。悪質な構造を持ち、資本主義は見えない暴力をふるう。……社会の勉強が足りないので、ここは印象の話です。社会への風評被害だったら申し訳ない。

 でも、大いに不都合があれど、それなりにうまくいくシステムだから、多分それで社会は回っているのだろう。

 しかし幸福、こと個人の心の安寧といったような面に対して、社会は驚くほど冷たいのを感じないだろうか。私は感じる。誰にも助けを受けられず、苦しんでいる人を私はたくさんたくさん見てきた。すぐ身近なところで、最終的には一切の安寧のない場所でただ苦しんで苦しんでその果に自殺してしまった人もいた。

 人を救わない世界、というものを目の当たりにしてきた。

 ……そして、人を救えない自分も。

 私はいま、正直幸せだと思っている。なにかこれ以上に望むことはないし、今死んでも別に良かった。生きていたらいたで良いこともある。しかし死んだら悲しむ人がいる。先生は私が死んだら傷つくだろう。親は、私を助けてくれないし、私を苦しめている存在でもあるが、しかし私が死んだら、やはり傷つくだろう。
 理想とは程遠い。おそらく世間一般の幸福には程遠いだろう。私には友人もいないし、恋人も居ないし、正直な気持ちを話せる人は一人も居ない。人生が辛い、生きづらい、傷が消えない、死にたくなるし、自分の存在が苦しい。でも、私は幸せだった。

 多くを望まなくても、幸せだと思える自分が居た。

 すぐそばで、一番身近な人が、傷つき、苦しんでいるのに

 私の人生は罪悪感に支配される。

 自分の人生ってなんだろう。

 ただ私は、周りの人みんな幸せで居てほしかった。その前提があれば、私は自分の人生を生きられただろう。だがそうではなかった。でも私は、周りの人を幸せにはできない。せいぜい、……。

 ここに居たのが自分ではなければよかった。

 自分は役に立たない。もっと役に立つ良い子だったら。環境にもっと適応した存在になれればよかった。パズルのピースがはまるように、全てがうまくいくような、そんな人間だったらなあ。

 そんな馬鹿げた理想が、これまた馬鹿げた自傷行為につながるのも、幼稚ではあるのだけれども、まあつまり、結局自分は、そういう人間だったということだ。

 自分の人生を生きるということは、すでにやっているとしか言いようがない。

 私は別に誰のために生きているわけでもない。ただ、人に与えられたものに苦しんでいることは確かだが、それは自分の人生を生きていないということではない。

 そういう自分だから、結局、いつまでも罪悪感からは逃れられないのだ。

 先生にはなんと言ったら良いのか分からない。

 然しカウンセラーという存在は、「判断をしない」ということを、話していると実感する。私がなにか言っても、それは正しいよとか、間違っているよとか、基本的にはそういうジャッジをしない。だから、否定されるのではないかとか、それはおかしいと指摘されるのではとかいったことを、恐れる必要のない相手なのだ。とりあえず何でも、話してみていいのだ。自分でそうとわかるまで回数は必要だったが。

 一方、判断はいつも自分がしなければならない。誰かに判断してもらいたいと思っても、そういうわけにはいかないのだ。カウンセラーはそれをしてくれないかわり、それをしないでくれる。といったところか。(変な良い方だが)

 憂鬱なときには判断することもまた苦痛だが、そういう時に手助けをしてくれるのがカウンセラーというか。判断出来ない、からしてもらおう、ではなくて、手伝ってもらおう、と思えると良いのかなと思った。

 だからある意味、辛いね。

 生きていると苦しいけどでも、他者が「してくれる」ことに、目を向けたい。
 だけど、どうやって返したら良いのだろう。

 分からない。

2023/11/20〚時雨の季節〛

 時雨とは、冬の初めに、晴れていたのに急に降りだし、かと思えばやむ雨のことをさす、冬の季語だ。

 今日はそんな季節を感じる一日であった。

 午前中に、相談室へ行った。その話は別のところで。

 学生食堂は、とにかく昼時は混んで、嫌なので、ピークの時間を避けて行くようにしている。私が入学した頃は、コロナの影響で非対面の授業がほとんどなのもあり、学食はとてもすいていた。それに慣れてしまったので、今の人混みには辟易としてしまう。

 今は学食に訪れるのも週に一回ほどなのだが、ちゃんとした食事というのはいろんないみで、良いものだなあと思う。ただ値段は、さほど安いというわけではない。高くて日常的には利用できない、と思っている学生もかなり多くいそうな値段ではある。

 私は大学にはいつも一人でいる。友だちは居ないのだ。気が楽でいい。楽しそうな周りの人を見ても、傷つくことはなくなった。なんだか最近は穏やかな気持で世界を眺めることができているような気がする。気がするだけか。

 幸福……一般幸福、それがどういうものだか、定義をしないと話がすすめられないような、議論がしたいわけではないから、それがなんだかわからないが、そういうものは、たぶん自分の外側にあるものだ。それに手を伸ばすから苦しくなるのであって、私はただ、そういう外の世界を、きれいだなと眺めていれば、それで良いような気もする。大体一般幸福は虚構ではないか。誰でも……人生がただ、きれいなものであるはずがない。なのに、世界が一見、きれいなものにみえる。だからそういう、幸福は虚構で……幻想で……それに手を伸ばそうとする行為が、己を不幸に貶めることになる。(幸せになろうとするということは、今の自分は幸せではないことを示してしまう)

 一般的な幸福というか、幸福は各々にしか存在しないはずなのだから、一般幸福などというものがまかりとおるとしてもそれは虚構である、と断じてしまいたくなるんだよね。

 私なんか浅学で横着性なので、こうやってインターネットの端っこで好き勝手いうことしかできない。

 たくさん勉強して、根拠を持って自分の意見を主張している人達は凄いな。尊敬だな。どうしてそんなに頑張れるのだろうか。結局は好きだから、というのが大きいのだろうか。

 それじゃああんまり世界を好きじゃない私にはせいぜいってことだ。

 今日は少し日記っぽいですね。

人生は物語ではない

例えば未来のような何かを夢見て、それがついえた後の苦痛にまみれた日々を私は知っていた。
でもそういうやるせない日々に、少しだけ心が穏やかになる瞬間はたしかにあった。

私はそれを、踏みにじるようなことは、できないのだと思う。
道端に咲いている小さな花を、踏みつけることができないのと同じように。

気づかなければ、踏みつけているという自覚も持つことができないだろう。事実私は、そうして数多の花を踏みにじってきたことと思う。

でも、今そこに咲いていると気がつけるものを、せめて守ることが、償いになる事を祈るのだろう。

そのように安寧を求めてしまうことに、罪深さがあるとしても。

人生は、物語のようなものではあるけれども、決して物語ではないのだ。似て非なるものは非なのだ。だから、そこに筋を描いたり、結末を求めたりすると、失望に呑まれることになりがちだ。

ある一つの筋ある物語として人生を捉えていると、時には《もう終わりだ》という絶望のどん底に突き落とされることがある。しかしそれでも、人生は続いてしまう。終わったはずの人生が続いてしまう。その絶望は計り知れないものだ。もう生きていられない。生きていたくない。こんな人生……というように。

(ただし、人生は千差万別、ランダムなものであるから、あたかも物語であるかのように経過することもある。それによって思い違いをしてしまうと、大きな失望を呼ぶことになるかもしれないし、ならないかもしれない)

多くの場合、人生はうまくはいかない。思い通りにはいかない。多くの事件や問題は解決できないまま過ぎ去り、問に答えはなく、ただ、私たち人間は生きて、死んでいくだけである。

最高のストーリーとしての人生を、あたかも劇作家のように完璧にプランニングし、自ら主役を務める。役者を選び彼らの手を借りながら、『完璧な人生』を演じようとする。しかしそのために最善を尽くしたとしても、人生は思いがけない展開を迎え、手に負えなくなってしまうことがある。脚本を無視して、好き勝手しだす役者もいる。そうなればもはや、台無しになった舞台の上に劇作家はただ一人、得体のしれない観客の目が暗闇からこちらを見詰めるのを感じながら、早く幕が閉じてほしいと心から祈るしかない。しかし、幕は閉じてくれない。だから、その最悪な劇を終わらせたければもはや、舞台から飛び降りるしかないのだ。

でも、人生は舞台上の出来事ではないし、人生は、物語でも、演劇でも、フィクションでもなんでもない。

だから、他者を自分の人生を演じるための手段として利用してはいけないし、自分自身を追い詰めるような筋書きを手に、苦しまなくても良い。

自分の人生はただ『自分がここにいる』だけで、本当は十分なのだ。でも、それでは許されないように感じるのはなぜか。それは、誰かがなにかある種の物語を作るために、わたしたちを利用している現実があるからだろうと思う。

「優秀な子の親」を演じるために塾に通わされる子供などは一例だが、基本的に苦痛を伴う人間関係というものは、誰かに何らかの役割を強いられ、「私」の存在が手段とされているからであることが多い。

我々は自分の人生の主役なのだから他者に縛られなくとも良い、というような言葉をよく耳にするが、私はそれもまた、危うさをはらんだ思考だと思う。

それは、「主役である自分」のために、誰かを使役することにつながりかねないからだ。

自分の人生において、自分はここにいて、自分が感じていることがある。それだけのことを大切にすることすら、許されない世界がある。許さない人がいる。そうして傷つけられて、心を踏みにじられている人がいる。

わたしたちは「物語」によって多くのものを踏みにじってしまう。自分のことも、他者のことも。うまくやれない自分自身や、思い通りにならず理想を裏切る他者に、「物語」を振りかざして傷つけてしまう。もっとうまくやらなきゃと自分を追い詰めたり、他者を責めたりしてしまうようなことだ。

そしてわたしたちが傷つけられるとき、その多くは他者の「物語」による暴力なのだ。

だけれど、せめて自分に対して、せめて自分だけでも良いから「自分がここにいること」を少しだけ、大切にできたらいいね、と思う。誰に否定されても。誰に踏みにじられても。自分自身が自分の存在を、踏みにじらないようにできたら。

目の前にある小さな花に気づき、それを大切にする時、少しだけ世界は穏やかになると思うから。

本当は、人生は物語ではないし、「私」は主役でもなければ、誰かの物語を演じる脇役でも、ないはずだ。なんの役も演じない、「私」は「私」のはずだ。だから、失敗なんてことはない。間違いなんてことはない。勝ち負けもないし、「もう終わり」なんてことはない。「私」はただ、生きていることが全てで、人生には筋書きもルールもレールも、強いられるべきことも、本当は存在しない。

本当は、そのはずなのにね。

相談室にて②〈カウンセラーはどれくらい覚えてくれるのか・忘れるのか〉

カウンセラーはどれくらい覚えている?

 カウンセラーの先生とお話させていただくようになって、これはネックのような気がしてきた。

 カウンセラーという人は、一日に何人もの人の話を聞いていることと思う。そうなってくると、一人一人の話を詳細に記憶することは当然、難しいだろう。というかほぼ不可能だ。

 これはカウンセラーに限った話ではなく、医者や教師なども同じことだ。我々からすると「先生」は一人しかいない。しかし、先生にとって自分は、数多いる患者や生徒の一人だ。この意味で、カウンセラーのような存在は、いつも私たちと厳密には「対等」ではないのだ。

 何度か回数を重ねるうちに、それを強く感じるようになった。

 一度は答えたことを、また尋ねられる。全く同じように私は答える。初回に話したのはもう2ヶ月近く前だから、あいまいになるのも仕方がない。ただこちらとしては、一度話したことだからそれについては分かっているという前提で話を進めてしまう。どれくらい先生は私の事を覚えているのだろう? お互いの認識が共有できていないと、もしかすると相談は空虚でどこかズレたものになってしまう可能性があって、それが不安だった。

 そして話していると分かるが、恐らく似たような内容を相談している人が他にもいるのだろう。それが先生の中で混ざっている事もあるようだ。特に自分が利用しているのは大学の相談機関なので、それこそ似通った相談内容が多いことも考えられる。それもまあ、仕方ないことだ。

 カウンセラーや医者といっても結局は個人なので、どれくらい憶えているのか、といっても結局は人それぞれだという事になる。こちら側の問題もあるだろう。私は記憶力には自信がある方で、一度話したことも、聞いたことも、基本的にはかなり長い間詳細に覚えている。これは話したっけ?ということはないので、相手が忘れているような場合は、ああ忘れているのだな、となる。

 これは別にカウンセラーや先生のような存在に対してだけでなく、友人や家族に対しても同じで、よくあることではある。私は相手の事を忘れないのだが、相手は同じ話を繰り返したり、これ話したっけ?と確認してきたり、前も聞いたことをまた聞いてきたりする、というようなことだ。

 まあ、各々、記憶力や、記憶するべきと捉えているものには差があるわけで、それは当たり前のことである。それにしても、「記憶」や「忘却」という事はとても不安な要素だ。同じ時間を過ごした相手も、自分と同じようにそれを記憶しているわけではない。私は記憶力に自信があるし、大抵の事は忘れなかったが、最近はそうでもなくなってきて、思い出せないことや忘れることが増えてきた。

 忘れるという事は奇妙な事だ。

 ……とはいえ、カウンセラーとの対話に限っていえば、自分は話した事をほぼ全部覚えているので、私の中での先生は、「自分が一度話したことは知っている存在」になっている。だが実際には、先生は部分的には忘れているようだ(当然ではある)。そうなってくると、相手の存在は自分の思っているものとはどんどんずれていって、もはや想定不可能なものになってしまう。先生が何をどれくらい覚えていて、どれくらい忘れているのか、もはや私には分からないからだ。

 カウンセラーとの相談の回数を重ねると、そういう不安も出てくるのだなあというある種の学びである。逆に言えば、ある程度の関係ができたからこその思案ともいえるのではあろうが。

 正直な気持ちを言えば、全てを覚えていてほしい。が、相手が人間である以上、それは望みが高すぎる。誰に対しても同じだ。本当は忘れないでほしい。それに私も忘れたくはない。だが、一般人にはどう頑張っても全てを覚えることはできない。仕方がないことではある。

 ただ、「これくらいまでは覚えていてほしい」、という、忘却に対しての許容のラインを各々持つことは、それはそれで認められるべきだろう。

通じ合って話すこと

 カウンセラーの先生が、全てを覚えていられない事は仕方がないことであり、それをある程度こちらは受け入れなくてはならない。ただ、共有されているはずの情報が欠けている時に、何度でも共有しあえるようなコミュニケーションができればいいとは思う。

 だから、「相談者の言っていたであろう前提条件を正直覚えていないが、適当に話を合わせてきたりする」ようなカウンセラーが相手だったら、私は不安でたまらなくなると思う。

 話が通じ合わないのはなんというか、怖いし、通じ合っていない事は、細かな雰囲気から察しがついてしまう。それは悲しい。

 また、話が通じ合わないという点で言えば、その原因は忘却だけではなく、こちら側が本来、話す必要があることを話していない、という事もありうる。

 そもそも他者に自分の考えを伝えるのは難しいことだ。こちらとしては当然の前提条件だから話し忘れていたが、本来はその情報を提示してもらわないとその先を理解できない、という事もある。そういう時に、ちゃんと質問をして、足並みをそろえて話してくれるカウンセラーなら、私は話しやすいと思える。

 要するに、今何をしているのか、何を共有するべきなのか、一対一の空間に浮かび上がる空気を、互いが明瞭に捉えて話せるかどうか、……個人的にはこれが、重要だと感じている。

 なんて、理屈っぽくいってしまったが、じっさいはもっと感覚的なものなのだ。

 なんとなく話していて、つかみどころのないような不安を覚えることがある。通じ合えていないような、言葉がふわふわと先生との間を漂ってすりぬけていくだけのような。もっとも、そういう時は、話しているうちに自分でも何が何だかよくわからなくなってきて……という、こちらの状態の問題であることが多いのだが。

どのくらい譲るか……

 なんにせよ、先生と自分は対等な存在ではないことも、先生が、自分の思うように自分の事を覚えていてくれない事も、ある程度は仕方のないことである。しかしこちら側がそれらに許容のラインを設けることも認められるべきだし、もっと覚えていてくれる人がいいなあと思うなら、相手を変えてみることもいいのかもしれない。(ただその場合、また一からというのがハードルが高いよね……)

 そのライン、要求する理想が高ければ高いほど、満足できない可能性も上がってしまうこともまた留意点だ。

 ただ、個人的には高い理想を持つことも認められるべきだとは思う。リスクを伴うものではあるが。理想が高いと不幸になりますよ。みたいなこと言われると、うるせえなと思う。別にいいだろ。それでもいいから賭けずにはいられない事があるだろう。

 だって、そりゃ親身になってくれる先生の方がいいじゃん……!?

 それもまた、当たり前のことである。
 ただ、ほとんどの場合、最終的にはこちらも何かを、相手に対して譲ることになるのだろう。しかしその譲る苦痛が、譲ることによって得られる何かを上回ってしまう場合や、上回ることはなくとも大きすぎると感じる場合には、譲り損なので、逃げていい状況といえる。

 しかし譲ることで得られるものがあったり、意味があったりするなら、時には妥協も必要になってくる。この世界の嫌なところだ。


 自分と他者はどうやら存在するが、神様はいないから。

相談室にて①〈カウンセラーと話して考えたこと〉

 私はこれまで、誰かに何かを、本格的に「相談」するということをしたことがなかった。
 大学3年生の9月の終わりごろ。夏休みに心を打ち砕かれた私は、始めて「相談室」とでもいうべき場所に足を踏み入れることにした。

 大学の、健康管理に関する施設。そこでは健康面、精神面の相談を受け付けていた。私は深夜にメールを送った。(本当は初回相談の受付は、メールではできないのだが、私は勘違いしてメールを送ってしまった)次の日の朝、返信が来て、電話をし、センターに赴き、予約と諸々最初の手続きを済ませた。初回の面談はだいたいそこから、一週間後くらいだった。

 それから、ニ週間おきに何回か通った。次で五回目になる。

 相手の先生は臨床心理士なので、カウンセラーということか。カウンセラーという存在の悪口は親から散々聞かされていたので、ある意味では過度な期待はしていなかった。そういった相手は、私を救ってくれるわけではない、ということを私は知っていた。なので、理想と現実のギャップにうちひしがれるようなことはなかった。

 もう11月になった。相談室に通い始めてから、2か月近くが経とうとしている。その間、この人が自分にしてくれることはなんだろう。ということを常に考えていた。他者は、私を助けてくれるわけではない。自分の人生を背負ってくれるわけでもない。

 カウンセラーも医者も神様ではない。ただ、他者である。本質的に他者にできないことをやってもらいたいと思っても、無駄に終わってしまうし、それでも相手が自分にしてくれることもあるのに、そこに目を向けることができなくなってしまう。

 先生は、話を聞いてくれる。そして、たまに問いをくれる。またあるいは、約束をする対象になる。

 だいたい、現時点で私は、その先生をそういう存在だろうと思っている。

 私はいつも何か聞かれても、その答えがわからなかったり、分かっても一般的に望ましくないものであったりすると、咄嗟に誤魔化してしまう。あるいは、何かそれっぽい回答をでっちあげる。先生に対しても結構、それはやってしまう。だから、後々にひとりで改めて考えることになる。

 相談室という場所を訪れてから、私は考えるべきことが増えた。直面しなければならない事が増えた。それはある意味で、自分を苦しめることになった。でもそれは最初に先生が言った事だ。これから、話を進めていけば、昔の事も思い出し、辛くなることもあると思うが、どうか。私は、結局は向き合わなければならない事だともう分かっていた。いくら逃げても、逃げても、逃げられない。亡霊のように付きまとう過去や、罪からは。

 私は、幸福になりたくて、相談室の扉を叩いたわけではなかった。

 私はもっと強くならなければならなかった。本当はめちゃくちゃに壊してしまいたいような憎悪を自分に向けてばかりいても、誰も幸せにはならない。私は、人に迷惑をかけないように、この先も生きていかなくてはならなかった。本当は死にたかったが、そういうわけにはいかなかった。強くならなくてはならなかった。そのためには、砕け散った心をまた引きずって歩けるくらいには、立ち直らなくてはならなかった。そこに幸福などあるわけがない。

 自分は永遠に孤独だし、この人生を背負ってくれる人が他にいるわけでもない。絶望の霧を誰かが晴らしてくれるわけではないし、もしそれができるとしたら自分しかいないが、もはや暖かな日差しを自分に与えることは、自分の人生において不誠実そのものとなってしまった。

 私は何かを間違っているのだろうか?

 先生は答えをくれない。答えは自分で見つけるしかない。その答えが、ある意味では結局間違いだったとのちに気づくことがあっても、それは本当に結果的なもので、あとになってわかることでしかない。

 私は相談というものを試みて、永遠の孤独を痛感した。

 それは予想通りだった。だから私は今まで、相談というものをしてこなかったのだ。

 だけれども、私はその永遠の孤独に、向き合うべき時が来たのかもしれないと思う。

 人間は誰しも、本来は永遠の孤独の中にいる。それを見て見ぬふりして、一生を過ごすのもまた生き方のひとつだと思う。あるいはこの永遠の孤独をなんとかしようとして、人は様々な概念や物体を作り出してきたともいえる。

 そしてそれを受け入れることもまた、生き方の一つではないだろうか。

 私はまだ何も決められずにいる。

ネオンライト

 大粒の雨が窓に打ち付けては散っていく。
 ネオンの明かりが雨降るシティに乱反射している。いつでも明るいシティの夜が今日は、ひときわ暗い。
 窓際の席でニールはぼんやりと頬杖をついて眺めていた。立ち並ぶシティ・ビルの明かりが雨にぼやけ、ネオンライトがぎらぎらと視界に煩い。
「アクアリウムに、新しい魚を入れたのですよ」
 ニールの背後から現れたウェイトレスが、恭しくグラスと酒瓶をテーブルに置きながら言った。
 ニールは答えず、緩慢に振り向いた。薄暗い店内の真ん中に、大きな水槽がある。ぼんやりとライトアップされたそこに、シティにありがちな派手さはなく、たゆたう水に色とりどりの魚が泳ぎ回っている。どれが新しい魚なのかは、もちろんニールにはわからない。
 ウェイトレスはもう去っていた。
 自ら酒瓶を開け、グラスに注ぐ。
 琥珀色の液体に、窓の向こうのネオンの色が混じっている。

表象における有徴、無徴

 メディア論の授業で有徴、無徴という考え方を知った。これは、ある漠然とした違和感の理由をクリアにする。主に文化人類学や表象文化論で重要視される概念である。

 俳優と女優。
 少年と少女。
 作家と女流作家。
 医者と女医。

 これらの言葉を扱う時、違和感がないだろうか。

 この場合、前者が無徴語、後者が有徴語となる。ジェンダーを考える際に、この有徴・無徴という考え方が注目されている。

 有徴とは、簡単にいうと、他とは区別するしるしがあるということになる。

 ある一つの村には、99人の村人と、1人の長がいるとする。長だけは特別な衣装を着ているが、他の村人は皆同じ服を着ている。この場合に、長の衣装には有徴性があるということになる。

 このような概念は、言語にもあらわれる。日本では、男性が就くことの多い職業名は、本来性別の区別はない無徴な語でありながら、男性であることが前提となってその意味に内包される。したがって、女性である場合は、それを示した有徴な表現を用いる

 看護婦は、看護師と言われるようになった。これは有徴な表現が無徴な表現に置き換えられたのだ。 

2023/11/15〚ゆるやか短歌〛

 短歌はけっこう、ゆるやかに詠んでる。

 よんだ短歌は、まずはこのサイトのHOMEにメモしている。そこは五行なので、五行埋まると、短歌のまとめページに、タイトルをつけて改めて載せる。そして次に新しい短歌を詠むたび、HOMEの短歌を右から上書きしていって、五首全部新しくなったら、また、まとめに移す。この繰り返しをしている。

 なので、最初から五首まとめる前提で詠んでいるというわけではないのだけど、5個並べるとたまたまそこにまとまりやストーリー性が見えることもあっておもしろい。

 『アライグマ』なんか、全部食べ物に関する歌で、おなかすいてたんだろうね。今日まとめた『つないで』は、なんか結構可愛い感じの5首だなあと思います。

 最近、色々日記として取り上げたいトピックはあるのだけれど、中々のんびり日記を書くひまがない。最近は本を読んで考えてばかりだし、力の入った文章を書きがちなのだな……。

 ゆるっと短歌を詠むと休憩になっていい。

 日記というか、個人的に日記のようなメモ書きはしてるんですけどね。それはこうやってブログに書くのとはまた少し違うというか。色々あるんですね。

 最近、やっと学校の図書館にお気に入りの席を見つけたんですよ。

 なんだかあの図書館は、開放的すぎて、私みたいな根暗には落ち着かない席が多い。あまり閉塞的なのもあれだけど、開放感があると……館内の雰囲気がきれいなのだが、利用する実感としてはあんまり……となってしまう。

 それこそ、席がごちゃごちゃしてるのも嫌だし、難しいな。図書館はかなり空間的なこだわりが必要な建物だよね。利用者は基本、利用する時間が長いし、集中したいし。本棚の配置もアクセシビリティ的な観点も在るし。

 図書館の空間についての考え方は色々論考があるだろうし、最近空間というものが漠然と気になってるから、少し調べてみようかな。

 今日は、寝る。

【言語の十大原則】言語とは何か、10の性質から考える

 言語とはなにか?

 この深遠なる問いを考えるにあたって、言語学者たちは言語の特徴、言語が言語である定義を様々に模索してきた。以下、『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』今井むつみ・秋田善美著(中公新書2756、2023年)を参考に、その10の性質についてまとめる。

 まずは、すべて述べておこう。コミュニケーション機能、意味性、超越性、継承性、習得可能性、生産性、経済性、離散性、恣意性、二重性である。

 このうち、経済性以外は、アメリカの言語学者チャールズ・フランシス・ホケット(Charles Francis Hockett、1916–2000)が、人間の言語は動物のコミュニケーションとどう違うかを指摘した際に用いた指標の一部である。
 経済性も、フランスの言語学者アンドレ・マルティネ(André Martinet、1908 – 1999)以降、注目されてきた。

 ではひとつひとつ、見ていこう。

コミュニケーション機能

 言語はコミュニケーションを目的にして発信されるものである、という観点である。音声言語にせよ手話にせよ、何かを相手に伝えたり、情報を伝達する目的があって用いられるのが言語である。
『言語の本質』では、独り言や日記についても、自分を相手とした疑似的なコミュニケーションという側面があることが考えられるとしている(が、個人的にはこの点には考察の余地があるように思う)

意味性

 意味性とは、特定の音形が特定の意味と結びつくという性質である。
 とんかつという音がとんかつを表す。「とんかつ」という、食べ物をあらわすのは、とんかつという言葉であり、とんけつも、とんこつも、「とんかつ」ではない、というわけである。

超越性

 言語は、今、ここにないものも表現することができる。
 昨日のこと、百年前のこと、あるいは未来の事、明日の晩御飯の事を話題にすることができる。たとえば野良猫がにゃあにゃあすりよってきたときの鳴き声が、さっきのできごとを表し、伝えているとは考えにくい。「ごはんちょうだい!」と今現在のリクエストを表現していると考えることはできるが。

継承性

 言語は、世代を経て、継承されていく。言語は特定の伝統・文化の中で引き継がれていくものである。子どもは親や周りの世界から、自分の属するコミュニティで用いられる言語を学んでいく。
 日本語も、長い時間を経て継承されてきた言語である。その起源には諸説あり、言語の興味深さがうかがえる。

習得可能性

 われわれ人間は、母語以外の言語も学んで、使えるようになることが可能である(頑張れば)。継承性と少し似ているが、継承性は母語としての獲得や継承の面に注目している点で、習得可能性とは着眼点が異なっている。

生産性

 言葉には、生産性がある。この文章も、その生産性の表れといえる。言語は特定のパターンや特定の発話しか存在しないわけではなく、そのシステム内で、ほぼ無限に言葉を組み合わせ、表現を行うことができる。言語は無限の文学作品を生み出すことが可能である。これも言語に生産性の性質があるからだ。
 また、言語には単語レベルの生産性がある。我々はすでにある単語の形式に従って、様々な新しい単語を生みだすことができる。〇〇活の派生など分かりやすい例である。

経済性

 言語の経済性とは、言語はより便利に、コスパよく使えるような形になっている、という意味での経済性のことをいう。同音異義語や、動詞などの意味が非常に多様化する例などがこの性質の現れである。

 日本語の「上がる」は、「階段を上がる」「気分が上がる」など、様々な場面で違う意味を持って使われる。その様々な上がるの意味別に、異なる別々の単語がそれぞれあったとしたら、それらをすべて覚えなくてはならないことになる。
 それは大変なので、「上がる」という、下から上に物が移動するというイメージを、様々な場面に連想して、「上がる」の一語を覚えれば済むようにしているのだ。これを、経済性と呼ぶ。

 略語などがよく生み出されるのも、この経済性の現れだろう。

離散性

 言語は離散的である。ちょっとわかりにくいが、離散とはアナログ(連続)の反対、デジタルのことである。
 色を例に出すと、現実世界にあふれている色は、連続的なものである。色を表す言葉は、赤とか、オレンジとか、黄色とか。虹はグラデーションだが、日本の感覚だと七色というのが一般的だ。虹の中にある無限の色を、七つに分ける。では、赤とオレンジの間は? 考えてみると非常に曖昧だと分かる。だが言語は、そのような、本来連続していて境目の曖昧なものを離散的に表している。これが、言語の離散性である。

恣意性

 言語は、恣意的なものである。恣意という言葉に聞き馴染みのない人は分かりにくいかもしれないが、要は必然性がない、ということだ。

 例えば目の前に、ねこがいるとしよう。日本語では、ねこ。英語では、Cat、というように、同じものを指す単語は、言語によって違う。ねこだけではない、いぬもたぬきも、全部そうだ。日本語においてねこという動物を「ねこ」と呼ぶのは、誰かが勝手に「ねこ」と言い出したから。これが、恣意性ということであり、言語はとても恣意的なものなのだ。


 ただ、ここにおいてユニークなのが、「オノマトペ」の存在である。にゃーにゃーとか、わんわんとかいう、あれだ。なかでも擬声語と呼ばれるものは音声を言語に表そうとしたものであり、完全に恣意的なものとはいえない。この点については、『言語の本質』で詳しく述べられていてとても興味深い。

二重性

 パターンの二重性と呼ばれる性質である。
 音声言語を構成するひとつひとつの音は意味を持たないが、連なって、ひとつの塊となることで、そこに意味が生まれる。ねこ、であれば、n、e、k、oと四つの音からなる。このnやeの音そのものに、特に意味はない。だがこの四つがひとかたまりに発音されると、それは「ねこ」となり、ねこ。ねこをさす、意味をもつ言葉という事になる。意味がある、ない、という二重性が言語にはあるのだ。

まとめ・参考文献

 この記事では、要点だけを端的に解説するにとどめた。『言語の本質』では、オノマトペという不思議な言語を、この10の観点から解説しているほか、咳払いや口笛などとの非言語との比較を踏まえて分かりやすく説明している。

 より詳しく知りたい人は、ぜひ読んでみてほしい。

『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』今井むつみ・秋田善美著(中公新書2756、2023年)

参考外部リンク:
チャールズ・ホケット(ウィキペディア)
アンドレ・マルティネ(ウィキペディア)