カウンセラーはどれくらい覚えている?

 カウンセラーの先生とお話させていただくようになって、これはネックのような気がしてきた。

 カウンセラーという人は、一日に何人もの人の話を聞いていることと思う。そうなってくると、一人一人の話を詳細に記憶することは当然、難しいだろう。というかほぼ不可能だ。

 これはカウンセラーに限った話ではなく、医者や教師なども同じことだ。我々からすると「先生」は一人しかいない。しかし、先生にとって自分は、数多いる患者や生徒の一人だ。この意味で、カウンセラーのような存在は、いつも私たちと厳密には「対等」ではないのだ。

 何度か回数を重ねるうちに、それを強く感じるようになった。

 一度は答えたことを、また尋ねられる。全く同じように私は答える。初回に話したのはもう2ヶ月近く前だから、あいまいになるのも仕方がない。ただこちらとしては、一度話したことだからそれについては分かっているという前提で話を進めてしまう。どれくらい先生は私の事を覚えているのだろう? お互いの認識が共有できていないと、もしかすると相談は空虚でどこかズレたものになってしまう可能性があって、それが不安だった。

 そして話していると分かるが、恐らく似たような内容を相談している人が他にもいるのだろう。それが先生の中で混ざっている事もあるようだ。特に自分が利用しているのは大学の相談機関なので、それこそ似通った相談内容が多いことも考えられる。それもまあ、仕方ないことだ。

 カウンセラーや医者といっても結局は個人なので、どれくらい憶えているのか、といっても結局は人それぞれだという事になる。こちら側の問題もあるだろう。私は記憶力には自信がある方で、一度話したことも、聞いたことも、基本的にはかなり長い間詳細に覚えている。これは話したっけ?ということはないので、相手が忘れているような場合は、ああ忘れているのだな、となる。

 これは別にカウンセラーや先生のような存在に対してだけでなく、友人や家族に対しても同じで、よくあることではある。私は相手の事を忘れないのだが、相手は同じ話を繰り返したり、これ話したっけ?と確認してきたり、前も聞いたことをまた聞いてきたりする、というようなことだ。

 まあ、各々、記憶力や、記憶するべきと捉えているものには差があるわけで、それは当たり前のことである。それにしても、「記憶」や「忘却」という事はとても不安な要素だ。同じ時間を過ごした相手も、自分と同じようにそれを記憶しているわけではない。私は記憶力に自信があるし、大抵の事は忘れなかったが、最近はそうでもなくなってきて、思い出せないことや忘れることが増えてきた。

 忘れるという事は奇妙な事だ。

 ……とはいえ、カウンセラーとの対話に限っていえば、自分は話した事をほぼ全部覚えているので、私の中での先生は、「自分が一度話したことは知っている存在」になっている。だが実際には、先生は部分的には忘れているようだ(当然ではある)。そうなってくると、相手の存在は自分の思っているものとはどんどんずれていって、もはや想定不可能なものになってしまう。先生が何をどれくらい覚えていて、どれくらい忘れているのか、もはや私には分からないからだ。

 カウンセラーとの相談の回数を重ねると、そういう不安も出てくるのだなあというある種の学びである。逆に言えば、ある程度の関係ができたからこその思案ともいえるのではあろうが。

 正直な気持ちを言えば、全てを覚えていてほしい。が、相手が人間である以上、それは望みが高すぎる。誰に対しても同じだ。本当は忘れないでほしい。それに私も忘れたくはない。だが、一般人にはどう頑張っても全てを覚えることはできない。仕方がないことではある。

 ただ、「これくらいまでは覚えていてほしい」、という、忘却に対しての許容のラインを各々持つことは、それはそれで認められるべきだろう。

通じ合って話すこと

 カウンセラーの先生が、全てを覚えていられない事は仕方がないことであり、それをある程度こちらは受け入れなくてはならない。ただ、共有されているはずの情報が欠けている時に、何度でも共有しあえるようなコミュニケーションができればいいとは思う。

 だから、「相談者の言っていたであろう前提条件を正直覚えていないが、適当に話を合わせてきたりする」ようなカウンセラーが相手だったら、私は不安でたまらなくなると思う。

 話が通じ合わないのはなんというか、怖いし、通じ合っていない事は、細かな雰囲気から察しがついてしまう。それは悲しい。

 また、話が通じ合わないという点で言えば、その原因は忘却だけではなく、こちら側が本来、話す必要があることを話していない、という事もありうる。

 そもそも他者に自分の考えを伝えるのは難しいことだ。こちらとしては当然の前提条件だから話し忘れていたが、本来はその情報を提示してもらわないとその先を理解できない、という事もある。そういう時に、ちゃんと質問をして、足並みをそろえて話してくれるカウンセラーなら、私は話しやすいと思える。

 要するに、今何をしているのか、何を共有するべきなのか、一対一の空間に浮かび上がる空気を、互いが明瞭に捉えて話せるかどうか、……個人的にはこれが、重要だと感じている。

 なんて、理屈っぽくいってしまったが、じっさいはもっと感覚的なものなのだ。

 なんとなく話していて、つかみどころのないような不安を覚えることがある。通じ合えていないような、言葉がふわふわと先生との間を漂ってすりぬけていくだけのような。もっとも、そういう時は、話しているうちに自分でも何が何だかよくわからなくなってきて……という、こちらの状態の問題であることが多いのだが。

どのくらい譲るか……

 なんにせよ、先生と自分は対等な存在ではないことも、先生が、自分の思うように自分の事を覚えていてくれない事も、ある程度は仕方のないことである。しかしこちら側がそれらに許容のラインを設けることも認められるべきだし、もっと覚えていてくれる人がいいなあと思うなら、相手を変えてみることもいいのかもしれない。(ただその場合、また一からというのがハードルが高いよね……)

 そのライン、要求する理想が高ければ高いほど、満足できない可能性も上がってしまうこともまた留意点だ。

 ただ、個人的には高い理想を持つことも認められるべきだとは思う。リスクを伴うものではあるが。理想が高いと不幸になりますよ。みたいなこと言われると、うるせえなと思う。別にいいだろ。それでもいいから賭けずにはいられない事があるだろう。

 だって、そりゃ親身になってくれる先生の方がいいじゃん……!?

 それもまた、当たり前のことである。
 ただ、ほとんどの場合、最終的にはこちらも何かを、相手に対して譲ることになるのだろう。しかしその譲る苦痛が、譲ることによって得られる何かを上回ってしまう場合や、上回ることはなくとも大きすぎると感じる場合には、譲り損なので、逃げていい状況といえる。

 しかし譲ることで得られるものがあったり、意味があったりするなら、時には妥協も必要になってくる。この世界の嫌なところだ。


 自分と他者はどうやら存在するが、神様はいないから。

By 竹環

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