オレは完璧主義者だった。
 常に最善の選択を。妥協せず、ぬかりなく。失敗しないように。絶対に間違えないように。
 さて、ここに完璧﹅﹅な人生を思い描いてみよう。
 たとえば円満な家庭。仲の良い友人や、かけがえのない恋人。テストで良い点を取り、やがて良い大学に入り、良い会社に勤める。子供も生まれ、金には困らず、みんな幸せで、自分も幸せ。そうして、天命を全うし、家族に見送られて静かに魂の旅を終える――。
 ……なんて、いささか夢物語が過ぎて失笑が漏れるが、まぁそんな人生ならば、完璧と言って差し支えないだろう。
 さあ、ならばオレの人生はどうだ?
 真っ暗なリビングは生ゴミの臭気で満たされ、蠅の飛び交う耳障りな羽音が響く。山のような缶ビールの空き缶に埋もれて、バッタみたいに足を折り曲げて死んでいる父親と母親。
 そして、穏やかに目を閉じた、最愛の妹。
 オレはオレなりに、完璧に歩んできた。今振り返っても、何を誤ったのか全く見当がつかない。馬鹿げた走馬灯に、明るい思い出なんか一つもないのだから、走馬”灯”ってのもおかしな話だ。オレたちの人生はきっと、誰かの輝かしい人生の灯籠が作り出す、影の方だった。
 ああ。
 どうしてこうなったのだろう?
 オレは、今しがた妹を殺した血に濡れたナイフで、自分の首を掻き切った。オレは完璧に殺したし、完璧に自殺する。当然のようにうまくいって、頸動脈から噴水のように弾けた血が薄汚れた壁を濡らすのが、他人事のように目に映る。
 それでもやっぱり、オレはどこかで間違えたんだろうか。死の間際。考えて考えて考えて考えて、でも結論は変わらなかった。
 オレは完璧にやったはずだ。
 なら、なぜ。
 その答えも分からぬまま、そうしてオレの人生は終わる。まさに正真正銘のバッド・エンド。
 ただただ、悔しかった。
 オレも双子の妹も、まだ高校生だった。逆に言えば、高校生までは耐えた。オレたちは必死で頑張ったはずだ。なのに、この世界は、オレたち兄妹に一滴の幸福も恵んではくれなかった。
 ――そうだ。世界だ。
 世界が憎い。闇に閉ざされていく視界が怒りに点滅する。意識が途切れるまで、脳内を焼き尽くす憎悪はただひたすら、世界を、神を呪う。
 完璧な人生なんて、そんなものを高望みしたことは一度もない。オレはただ妹と共に、生きていきたかった。それだけだった、なのに。
 最後に、手を伸ばす。もう冷たくなった妹を大切に抱きしめて。

 ――ごめんな、守って、あげられなくて。

◇◆

 ――お兄ちゃん。
「うん?」
 オレは反射的に返事をした。
 その声に呼ばれた時は、そう決まっている。
 目を開けた、――というわけでもないのだが、視界が明るくなり、周りの様子が見えてくる。
 すると眼の前に、ふわふわのばかでかい犬が居た。
「うわっ!?」
「わふん?」
 思わず飛びのく。つまり……オレには飛びのくことができる、身体があり、手足があった。オレは死んだはずだが、今ここに立って、ものを考えている……。
 咄嗟にそう理解したものの、それを深く考えるヒマはなかった。
 そこにひしめく有象無象が、オレの注意をかっさらっていったからだ。
 まず目に留まったのは、やや離れたところの、――あれはどう見てもドラゴンだ。ドラゴンにしか見えない。なんだあれ? 見なかったことにする。
 すぐそばには、妖精のように美しく、色とりどりな少女たちの集団がいる。と思ったら、背中に半透明の羽が生えているんだから呆れてしまう。パーティ会場か?
「……なんだこれ」
「ふーん、見たところきみはまだ魂の旅を始めたばかりみたいだね」
「はぁ?」
 犬が、喋った。
 と思ったら、ふわふわの犬の輪郭線がぼやっと揺らいで、ぐにゃぐにゃ形を変え始める。あっけにとられて見ていると、そこにはいつの間にか、一人の青年――と言っていいだろう、背の高い、アッシュグレーの髪と目をした男が、立っていた。
「………………どういうことだ」
 絶句の後、そんな無様な問いを絞り出す。
「変だな。何も知らないの? そもそも初めてここを訪れた魂は、フィル・フィローアの元へ送られて祝福を受けることになっているはずなんだけど」
 何を言っているのかさっぱり分からない。もはや何を訊けばいいのかもわからないレベルだ。……が、オレはそこでようやくハッキリと思い出す。あの悪夢のような死に際。そうだ、オレは死んだはずだ。
 最愛の妹を、この手で殺して……。そうだ、あいつは?
「まあ、つまりはここは死後の世界のようなものだよ。……って、せっかく人が親切に説明してあげているのに、聞いてないの?」
「いや……ああ、ありがとう。でも、一緒に死んだはずのやつがいるんだよ」
「同じ世界で同じ時間に死んだのなら、まだこのあたりにいるはずだけどね」
 オレは青年(でかい犬?)へおざなりに返事をして、きょろきょろと辺りを見回す。死んだときの、学校の制服姿を探せば良いのだろうか? ちらりと確認してみると、自分も制服のシャツ姿だった。血で汚れたりはしていない。
 ――が、ちょっと待て。しかし死後の世界なんて、ずいぶん馬鹿馬鹿しい話だ。あの世ってやつか? 死後も自己の存在が続くなんて、そんなはずはない。人間の意識は生きる脳に宿るわけで、死ねば脳はすみやかに動きを止め、意識も記憶も消滅する。己の存在はそこで終わり。
 魂なんて、存在しない。だから、こんなのはなにかの間違いか、あるいは死の間際にオレが見ている夢か。
 ――いや、だとしたら、その夢にあいつがいないのは、おかしい。
 その時、この奇妙な雑踏のはるか向こうに、あの長い髪と、青いリボンの端が見えた気がした。
「――那往なゆく?」
 オレは妹の名前を呼んで、思わず駆け出した。
 謎のウサ耳集団をかき分け、自転車ほどの大きさもある蟹の脇を走り抜ける。巨大な龍。天使みたいな有翼の女。霧のようにゆらいで姿を変える者。ゴブリンの群れを押しのけて、オレは走り続けた。そんな有象無象はどうでもいい。オレにとって、大切な存在は、妹だけだ。それ以外は全部……、どうってことはない。
 そうだ、どうってことはなかった。
 こんなわけの分からない場所で、あいつは人混みに怯えるから、きっと怖がっているだろう。きっと、オレを呼んで泣いている。
 走り続けるが、その青いリボンはちらちらと見えるばかりで、一向に近づけない。
 名前を呼ぶ声も、届かない。
 オレが、妹を守ってやらないと。
 なぜかいつも、他の誰ひとりとしてオレたちを愛してはくれない、誰もオレたちの味方をしない、だから、妹のことは、オレが――。
 ……だが。
 オレは、結局、あいつを守れたか?
 真っ暗な血塗れの部屋。そこは最悪の狂気に満ちた、最悪の結末。その柔い皮膚をナイフが裂いた手応え。焼き付いた記憶がフラッシュバックした瞬間、力が抜け、やがて、オレの足が止まる。
 ……守れなかったじゃないか。
 この握りしめた拳は、どこに振り下ろせば良い。
 オレたちの世界のすべては、オレたちを見放した。暴力と、無関心と、あらゆる罵詈雑言と、徹底的な否定。世界がオレたちにくれた祝福ギフトは、悪意に満ちていた。
 逃げても逃げても。世界はオレたちを容赦なく追い詰める一方だった。
 ……オレは死んだ。オレの人生は最低最悪のバッドエンドで幕を閉じた。それで、すべては終わったはずじゃないのか。なぜ、オレはまだここにいる? なぜ。なぜ。なぜ。この先も考え続けなければならないのか。
 オレにこれ以上、どうしろというんだ。

『お兄ちゃん。この世界は正しくない。この世界はおかしい。間違ってる。歪んでいる。変だよ。狂ってる。ねえ、お兄ちゃん、それとも……狂ってるのは、変なのは、歪んでいるのは、間違っているのは、おかしいのは、正しくないのは……わたし?』

 違う。
 ――世界に決まっている。
 オレはいつも血の滲むような努力を尽くした。妹も同じだ。あるいはオレ以上に。だから、あいつを守りたかった。助けてやりたかった。幸せになってほしかった。それだけだ。
 なのに、なぜ世界は応えてくれない?
 オレたちの幸福は、最初からあの世界に存在しなかった?
 神は最初から、オレたちを見放していた?
 ――だとしたら、オレの人生に、オレの存在に、オレの意志に、何の価値があった?

 気が付くと、オレは巨大な闇の入り口に立っていた。異常に静かだった。背後から差し込む灯りが照らすのはわずかな範囲で、先は闇に消えていく。頭上も同じで、どこまでも深く、暗い。
 だがそこに広がるのが単なる闇ではないことが直感的にわかる。静謐な無限。オレの目に見えないなにかが、そこにあるのだ。
 無窮の闇の奥へ、青いリボンが消えていったような気がして、一歩、踏み出しかけた。
「こんなところで、何をしているのです?」
 その時不意に背後から、声が聞こえた。
「転生がしたいなら、きちんと手続きしていただかないと。宇宙の狭間に落っこちて永遠の虚無を漂うことになってもしりませんよ。そもそも、どうやってここにきたんです。勝手に立ち入るのは禁止ですよ」
 振り向くと、闇の中をぽっかり切り取る光の向こうに立つ人影があった。逆光でよく見えないが、子供のようだ。オレがぼんやりと立ちすくんでいると、その影はずんずん近づいてきてオレの腕をひっつかんで外へ引っ張っていった。闇が遠のいていく。
「……迷ったんだ」
「最近は変わったことばかりで困りますね」
 その空間から外へ出ると、眩しくて目がくらむ。背後で重く扉の閉まる音がした。扉を通った覚えはないのだが。振り向くと、見上げるほど巨大な両開きの扉が、二度と開きそうもなくぴっちりと閉ざされていた。
「オレの前に、もう一人誰か来なかったか?」
「いいえ。こんなところまで迷いこんだのは、これまでで貴方が初めてですよ」
 向き直すと、オレをひっぱっているのは十歳前後とおぼしき少女だった。亜麻色の髪の中から、黒曜石のような艶めく一対の巻き角が生えている。さて、本当に変わったことばかりだ。
「……なあ、ここって、本当に死後の世界ってやつなのか」
「ふむ、やはりあなたはまだ何も知らないのですね」
「そうみたいだな」
 純白のなめらかな石材でできた長い廊下が、延々と続いている。光源はどこにあるともしれず、しかし昼間のような明るさに満たされていた。ところどころに四角く切り取られた窓があり、その外に美しい庭園が広がっているが、どうも作り物じみているが、眺めていると不思議と穏やかな気分になってくる。
「やはりおかしいですね。フィローア様と連絡がとれないのも、偶然ではないのでしょうか……」
 ふと呟かれた声に、先ほども聞いた名前が混じっていた。
 いったい誰なんだ、そのフィローアとかいうのは。
「なあ、ちょっとはオレにも教えてくれないか」
「それは私の仕事ではないのですが……。まあいいでしょう」
「あと、引っ張らなくても、ちゃんとついていくよ」
「迷子になった人を信用できません」
 オレの手首をつかむ手を離さず、少女はせっせと歩いていく。もう片手には、背丈より大きな杖のようなものを持っていた。上部にジャイロスコープのような不思議な装置がついている。着ている藍色のローブといい、魔法使いみたいな雰囲気だな。
 少女の姿だが、彼女が人間の子供のような存在ではない事は直感的にわかる。オレとは存在のレベルが違うのだ。が、それでも幼い少女にしか見えない。変な感じだ。
「迷った、ってとこは信用してくれるんだな」
「……まぁ、えぇ。私にはすべてが分かりますから」
 彼女はちらりと振り向く。
「それにあなたが迷ったのだと言ったのですから。わざわざ疑ったりはしませんよ」
「そんなにお人よしでいいのか?」
「良いのです。私は全てを見通せるのですよ」
 オレの言葉を信じてくれたのは、いつでも妹だけだったことを思い出す。
 白亜の道と庭の景色は、延々と続く。時々曲がりくねり、階段を下りたり、微妙な勾配を感じる個所もある。
 やがて彼女は淡々と、話し始めた。
「ここは、魂の行き着く場所。あなたたちの文明では、あの世や天国、地獄と考えられていた場所に近いでしょうが、それとは少し違います。私たちはエーピアと呼んでいますが、あなたたちの言葉では、……心縁しんえん世界とでも呼べば分かりやすいでしょうか。ここは世界の中心coreであり、そしてedgeなのです」
「心縁、世界……魂?」
 ただ、呟くように繰り返すので精一杯だ。
 その言葉を信じるなら、やっぱりオレは死んでなお、魂としてここにいることになるのか。
「魂というものは、簡単にいうと……宇宙の中で生命によって作り出されて生まれるのです。そして生物と共に魂は成長し、宿主が息絶えると、魂も、本来はそこで消滅します。しかしそんな魂を導く方法と、この世界エーピアを生み出したのが、フィル・フィローア様です」
「神様、みたいなものか」
 慎重にそう尋ねると、しかし彼女はかぶりを振った。
「あなたたちの考える神はとても多様なものでしょうが、それとは少し違います。あの方も、宇宙の中で生まれたのです。そしてそれから、魂の支配者になった。最も、あなたの生まれたのとは別の宇宙ですが」
 別の宇宙、ということが気になるが。それはつまり、平たく言えば、元は同じ人間、みたいなことなのか。
 不思議と反発心もなく、素直に話を聞いている自分がいることに気づく。
 彼女の静かで美しい声に宿る、その超越的な響きは、水でも流れ込むかのように、オレの心にごく自然に、意味を伝える。
「フィローア様はほんとうに偉大なお方なのですよ。あの方が、つまり、あなた達の言葉で言う、輪廻転生、生まれ変わりを、科学的﹅﹅﹅に、可能にしたのです」
 しかし、流石にその言葉には耳を疑った。輪廻転生や、魂の領域が、科学?
 それが、〝科学〟なのか?
「あなたたちの言葉で言うと、ですが」
「……なるほど」
 著しく発達した科学は魔法のようなものだというが、これはそれどころの話じゃない。
 勉強は好きだったが、時間を割くことができないまま高校生のうちに死んだオレには、とてもついていけそうにないレベルの、途方もない話だ。
「じゃあこの、世界に、神はいないのか」
「――いいえ」
 気づくと、出口がそこにあった。白い壁が途切れ、ぽっかりと口をあけたそこは、橙色の光に満ちていた。まるで西日だ。
 相変わらず引っ張られて、外に出る。
 風が吹いていた。
 一目見て、心縁世界エーピアは、球体の内側の世界なのだ、とわかった。
 広々とした空間が、球状の壁に取り囲まれている。ここはその壁際で、高さとしてはちょうど真ん中あたりか。
 反対側が霞むほど広い球状空間の壁面は、ホロパネルに覆われており、そこに夕焼け空の橙色が投影されているのが分かった。遠くの方はただの自然な空のように見える。
「ちょうど、夕暮れですね」
 そんな呟きにはなんとも返しかねたので、代わりに指さして尋ねる。
「あれは何だ?」
 すぐ目の前からは細く白い石畳の道が空中へと伸び、その先は球空間の中心に浮かんでいる巨大な建造物までつながっていた。
「あそこは、エーピアにやってきた魂が最初に送られるエントランスです。大体のことはあそこで分かりますから、まずはあそこに戻ってください。ここから先は、もう大丈夫でしょう。落ちないように気を付けて下さいね。落ちると、下は――そうですね、あなたたちの言う地獄でしょうか」
「……随分広いんだな、この世界は」
 際まで行って覗き込んでみると、はるか下方には、海のように水が満ちていた。見回すと島のようなものもぽつぽつと見える。真ん中の方では中央の建造物――エントランスの下部が水面に接して、何やら港のようになっているのがうかがえる。
 そのまま視線を上げると、白亜の建造物は、橙色の光を反射して眩しくきらめいている。どこからか削り出された巨大な鉱石が浮いているようだ。それにしてもあんな遠くから、一体いつの間にこんな場所にまで来ていたのかさっぱり分からなかった。
 さらに見上げると、その上端から長い塔が、球の天井までまっすぐ伸びているのが気になる。
「あの塔は、いわゆる天国につながっている道なのです。ここからは見えませんが、下方にも同じように塔が伸びて、まあ、地獄につながっているのです。ですが、どちらもあなたのイメージとはだいぶ違っているはずですよ。それぞれ天想郷てんそうきょう獄樂郷ごくらくきょうと呼ばれる場所です。各三層ずつ、今のエーピアはこのエントランスを合わせて合計で第七層あり、天想郷の頂上にフィローア様がいらっしゃいます」
 この少女の何もかも見通す力は、本当だと感じざるを得ない。オレが疑問に思ったことを、尋ねるまでもなく彼女は答えてくれる。彼女は嘘や罪を見抜くことができ、そして決して偽りを述べたりもしない。そこには真実の誠実さがあるように思える。
 少女は、微笑んだ。オニキスのような瞳が、夕陽の橙にきらめく。
「どちらも、もとは一層でしたが。増え続けているんですよ。獄樂郷の第三層ができたのが、――大体、三千万年ほど前なので、ごく最近ですね、というのもどうやら最近は、輪廻転生というのも時代遅れになってるようでして」
 三千万年が、最近か。そこら辺はもうツッコんでもしょうがなさそうではあるが。
「輪廻転生に時代遅れもなにもないだろ……」
 ここだけはツッコませてもらおう。彼女は苦笑し、続ける。
「私にも不思議ですが、流行り廃りはあるのです。各々にとっての”異世界”への転生がとても流行った時もありましたね」
「異世界転生? いつでも人気がありそうだけどな」
 正直、オレも興味がある。まあでも、ある程度繰り返したら飽きるものだろうか。魂の感覚はまだオレにはさっぱりだ。
「最近ではこの世界に留まって過ごす者が多くなってきたのですよ。魂として成長するには、もちろん生まれ変わり、生物として生きる必要があります。ここでは、何も得ることはできません。が、それでも別にいいのでしょう。フィローア様もそれには反対していません」
 確かにここは、そんなに悪い場所ではなさそうだった。少なくとも、オレがあの宇宙のあの地球、あの国で、オレという人間として生きた世界に比べたら、ずっといいところだ。この短時間でも、そう思える。
「ここは自由です。あらゆる魂が、あらゆる夢を見て、あらゆる理想を永遠に過ごすことができる。もちろん、正真正銘の永遠の眠りにつく選択も可能です。でもその必要も、あまりないでしょう。ここでは何かを不満に思う必要はありません。ここは、魂の永遠の安寧のために作られた世界なのですから」
「自由、か……」
「ええ。あなたもここで、自由に過ごすことができます。もちろん転生もできますが」
 彼女は見通す。
 それこそ閻魔が死者の罪を裁く時に覗く、鏡のように。
 なら、全てわかっているはずだ。なのに、オレを裁いたり、咎めたりはしない。
「……オレの望みは、ここで叶うのか?」
 あえてそう尋ねてみる。
 今はまだ自分の望みが何であるのかも、よくわからないのに。
 彼女はオレの横まで歩いてくると、黄昏の輝きに目を細めながら口を開く。 
「……実は私にも、未来のことはわかりません。世界はあまりに奥深く……未来の完全なる予測というものは、この魔法のような科学をもってしても、不可能なのですよ」
 彼女は言いながら、オレの方を向くと、片手を差し出した。その手のひらをオレの方に向け、トン、と杖で地面を叩く。水面を打つように、空間がさざめいた。
「魂の意志を妨げることは、誰にも許されません。誰にもできないのです。あなたはあなたの望むように、在る﹅﹅ことができます。その意志は、神であっても、妨げることは不可能なのです」
 ――魂は、神を越える。
「それが、フィローア様の理論であり、信念なのですよ」
 その手のひらから放たれた青白い光が、オレを包み込んで、弾けた。
 澄んだ清流のごとく、頭の中に流れ込んでくる。それは、……知識だろうか。
 こうやって伝えることもできるのに、わざわざ彼女はオレと会話をしてくれたのだと分かる。
 魂の漂流地、心縁世界エーピア。
 フィル・フィローアの理論。
 それは、魂と、無限に広がる多元宇宙、――そして『神』に挑む理論だった。
「……これは本来、フィローア様が、生まれてきたすべての魂に行う祝福なのですが、今回は代わりに、私が務めさせていただきました。うまくできているといいのですが」
「ああ、大丈夫そうだ……ありがとう。すごいな。まぁ少しだけ、解った」
 当然、オレの脳で理解できる範囲なんてたかがしれている。彼女はその範囲にまでレベルを落とした知識を、オレに与えてくれたのだ。
 いや、彼女が与えてくれたのは、どうやらそれだけではない。
「良かったです。あなたはまだ、世界に生まれたばかりの魂ですね。言い遅れてしまいましたが、おめでとうございます」
「……――ありがとう」
 この世界に、生まれてきたことを、祝われたのか。それはあまりにも思いがけない言葉で、一瞬なんと返したらいいのか分からなかった。
 彼女は優しく微笑むと、続ける。
「私たちは、魂の誕生を祝福し、名を贈ります。ですがもちろん、あなた自身が決めても良いのです。最初の一生で名前を与えられた者は、その名前を名乗り続けることもよくあります。どうしますか?」
 名前か。
 オレは少し迷った。オレの名前は、要するにあの最悪な両親に名付けられたものだ。今目の前の彼女に、新しくオレの魂に名前をつけてもらえたら、どんなに良いか。と、思わなかったといえば嘘になる。
 だが……。
 それでも、オレはあいつの兄で居たかった。
「オレは……これからも前世の名前を名乗るよ。妹が……もしオレを探していたとしたら、その時は、見つけられるように」
 それを聞いて、彼女は静かに頷いた。その優しげな瞳の光が、オレの選択を肯定してくれる。
「わかりました。では、――たまき 奈來なくるさん。あなたの魂の旅路が、善きものでありますよう」
 オレはその煌めく黒い瞳を見つめた。ただ、深く感謝していた。相手に感謝を伝えたい時、言葉はあまりにも足りない事に気づく。
「ああ……ありがとう」
 オレの言葉に、彼女は頷きを返す。少し名残り惜しかったが、もう行かなければならない。
「……また、会えるか?」
「ええ、きっと」
 最後にそう交わし、オレは彼女に背を向けると、歩き出した。空中へ延びる長い道。石畳を叩く軽やかな音が心地よい。
 オレは今まで、「完璧」というものを、微妙に履き違えていたのかもしれない。
 それは今までもこれからも、完璧主義者のオレの、ただの我儘にすぎなかった。
 オレの人生の唯一にして最大の失敗は、それを理解できていなかったことだ。
 オレはオレ自身の完璧のために、妹を、たまき 那往なゆくを守り抜くべきだった。たとえそれ以外の全てを壊し、殺してでも。
 それで良かったんだ。
 なぜなら、オレたちが必死で守ろうとした全てが、最終的にオレたちを殺したのだから。
 あの人生はもう二度と、やり直せない。
 しかしオレの人生のバッドエンドには、続きがあった。今もなおオレの魂は存在を続け、ここにオレの意志がある。
 ならばその意志が続く限り。オレは完璧﹅﹅な、復讐のために、この旅路を行こう。
 それがたとえ、神や世界への反逆であり、オレのような矮小な魂には到底過ぎた望みなのだとしても。
 未来がどうなるか、それは誰にも予測できない。
 だから何事も、やってみる価値があるのだ。
 ――それが自分の意志であるならば。
 オレは視界の先の、純白の建造物を、そして、その上にはるか高く伸びていく、塔を見上げる。
 さて。
 これから、どれだけの永い時間がかかるだろうか。
 それこそ、何万年、何千万年? 想像もつかず、苦笑する。まぁ、そんな先のことを考えても仕方がない。
 まずは、天想郷の最上層にいる、フィル・フィローアに会いに行きたい。
 この魂のユートピアの創造主であり、魂を支配するという『科学者』に。
 オレは世界についてもっと知りたかった。あるいは神について。オレが復讐すべき存在は、いったい何なのか。それは世界なのか、神なのか。
 まだオレには、何も分からない。
『あのお方ならきっと、”神”について、何か知っています』
 ……そっとそう教えてくれた、あの小さな門番の名前を、尋ねそびれたことを思いだす。
 振り返ってみると、そこにはなにもなかった。歩いてきたはずの道は空中で途切れ、誰もいない。オレンジから群青に色を変えつつある、壁面のパネルが向こうに見えているだけだ。
 ――オレはもう、那往に二度と会えないのではないか。
 なぜかふと頭をよぎったそんな予感は、さて次の瞬間、耳に届いた悲鳴のような叫び声によって、かき消されることになる。
「わ、わ、わ、うわわわわわわ~~~~! ちょっとそこの人~~~~~!!」
「……え?」
 突然、その声が、上から﹅﹅﹅降って来た、と思ったのもつかの間。
「助けてぇ――――っ!!」
 その落下してきた声の主は、虚空からオレに手を伸ばしてくる。その一瞬、――オレは、身を乗り出して咄嗟にその手を掴んでしまった。
 が。
 もちろん、そんな勢いをオレが受け止められるはずもなく。
「うわわぁあぁああ〜〜っ! ごめんなさーい!!!」
「はは……こちらこそ……」
 もう笑うしかない。
 その少女の落下エネルギーは当然オレを巻き込んで、オレたちは一緒になって空中を猛スピードで落ちていく。
 おいおい。今さっき、最上層を目指そうって決めたところなのに。
 というか、この下は地獄的な所なんじゃなかったのかよ。
 キラキラと虚構の夕陽を反射する水面が、みるみる近づいてくる。
 名残惜しく身体を翻し、天井へ延びる塔を見上げるも、なすすべなく遠のいていく……。

 そういうわけで。

 オレ……環奈來の人生は完璧も程遠く、救いようもないバッドエンドに終わった。――はずだった。
 しかし、オレの『存在』はそこで終わらない。この魂は奇妙な世界に運ばれて、まだ、ここにいて。
 そして今、地獄の底に向かって垂直落下の真っ最中である。
 一体全体。
 ……どうしてこうなるんだ?


『Ex:完璧主義者のリベンジ・ロード』
第1話「バッドエンドのその先へ!魂の心縁世界《エーピア》」 了

By 竹環

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